カテゴリ:哲学宗教( 23 )
河原町カトリック教会東門神父の聖書講座を思い出す
私はブルーグラス音楽が好きなので WAMU’s Bluegrass Country などのインターネットラジオを聴くことが多い。ところがこのシーズンになるとクリスマス音楽が流れ始めるので辟易とする。京都の商店街もそのうち「ジングルベの喧騒が始まるのだろう。クリスマスはキリスト教の行事だが、しばしばその範疇を超えることがあるようだ。かなり昔、私の少年時代にはクリスマスイブになると、三角帽を頭にした酔客がケーキをぶら下げて帰宅、その姿の写真がが翌朝の新聞に掲載されたことを憶えている。さすがに昨今はその姿を見かけない。
b0148967_1221999.jpg
ポインセチア 京都府立植物園(都市左京区下鴨半木町)

幼少期と中学生時代などをニューヨークで過ごした井上多恵子さんの「想いを英語に託せば」によると、宗教上の理由でクリスマスを祝わないユダヤ教徒らは、Season’s Greetings(時候のあいさつ)と書かれたカードを使うという。なるほど、非キリスト教徒が Merry Christmas というカードを出すのはおかしい。その点、ある意味で宗教色が薄いと言われる日本人はキリスト教徒ではなくともクリスマスに反発しないようだ。というよりイブになると京都の河原町カトリック教会などは、俄か信者の若いカップルで一杯になるから面白い。非キリスト教徒向けのミサを「クリスマス市民の集い」と教会が称して信者のそれと区別している。河原町カトリック教会といえば、毎週1年間通ったことがある。

東門陽二郎神父の講義を聴く為に聖書講座に通ったのだ。東門神父はニチメン実業の創始者の家庭に生まれた。京都大学医学部を卒業、後にカトリック神学院へ入学、ローマ法皇庁へ派遣され、哲学、神学を学んでいる。いわば科学者から宗教家に転じたかたである。宗教学上の興味で受講、たいへん勉強になったが、信仰に傾くことはなかった。何度も質問したイエズスの「復活」について、絶妙のご返答をいただいたが、やはりそれを受容できない自分を再認識したからだ。クリスマス音楽、カードと共に、このシーズンになると東門神父の講義を思い出す。

[PR]
by twin_lens | 2010-12-12 08:58 | 哲学宗教
石仏に見る盛者必衰の無常
b0148967_2251722.jpg
阿弥陀如来座像 真如堂(京都市左京区浄土寺真如町) NikonD700 Nikkor28-70mmF2.8
b0148967_16483796.jpg
頭部が欠けた石仏 真如堂(京都市左京区浄土寺真如町) NikonD700 Nikkor28-70mmF2.8

墓地は石造彫刻の宝庫と言えるかもしれない。例えば法然院の墓地には滋賀県東近江市にある石塔寺の重文三重塔「阿育王塔」のコピーがあったりして興味深い。ご存知嵯峨野の化野念仏寺の賽の河原は、いわば八千の仏の墓地である。補陀洛寺の墓地には小野小町の供養塔がある。五重の層塔で、薬師・釈迦・弥陀・弥勒の四方仏が彫られている。その形式から鎌倉後期の造立らしいが、一番奥には300体もの石仏がずらりと並んでいる。私はこのように寺を訪ねると墓地を見ることにしている。思わぬ発見があるからだ。真如堂(真正極楽寺)にも夥しい数の石仏があり、本堂の南側にコンクリートで固めた地蔵塚がある。横に「木食正禅造立」と刻まれた蓮弁の石の台座があり、鎌倉の大仏を小ぶりにした阿弥陀如来露仏が目につく。私はその裏に密かに佇んでいる石仏群が好きだ。
b0148967_1648711.jpg
頭部が残った石仏 金戒光明寺(京都市左京区黒谷町) NikonD700 Nikkor28-70mmF2.8
b0148967_2114571.jpg
無縁墓石供養塔 金戒光明寺(京都市左京区黒谷町) NikonD700 Nikkor28-70mmF2.8

b0148967_16491559.jpg
真如堂から少し南に歩くと会津藩士352名の墓所の菩提寺である西雲院に出る。法然上人が座ったと伝わる「紫雲石」で知られるが、ここにも金剛夜叉明王像などの石仏が安置されている。境内から山門を抜けると、金戒光明寺の広大な墓地に出る。そこで目に飛び込んで来るのは、様々な理由で整理された無縁墓石群である。その墓石に埋まる感じで残されている石仏の頭部がある。頭部だけなので、釈迦如来か阿弥陀如来か私には判別がつかないのが残念である。前からずっと気になっているものだが、何故かガンダーラ仏、あるいはさらに遥かのギリシャ彫刻を連想させられる表情をしている。大袈裟にいえば、イスタンブルの地下宮殿の柱の礎石になっているメデューサの様相を思い出すのである。このような形で放置されているなら、家に持ち帰りたいところだが、そうはいかないだろう。さらに南に下ると、今度は無縁墓石供養塔が聳え立っている。塔の上には阿弥陀如来像が座しているが、諸行無常、石の造物もまた永遠にあらずと感じ入る。平家物語ではないが、盛者必衰の姿がここに具現化している。

[PR]
by twin_lens | 2010-12-02 19:26 | 哲学宗教
続・蓮華寺から流失した石仏の謎
b0148967_9162084.jpg
京都市山科区御陵大岩の本圀寺に出かけてみた。御室仁和寺の隣にある五智山蓮華寺の音羽山から流失した二体の石仏があるという。京都市営地下鉄東西線御陵駅で降り、三条通から案内標識を頼りに急勾配の坂道を上ると、琵琶湖疏水に出た。桜の名所だが、辺りはすっかり秋の気配、その葉が色づいている。疏水沿いに東へしばらく歩くと、朱塗りの正嫡橋(写真右)が目に飛び込んできた。近代化遺産ともいえる疏水の素朴なコンクリートと好対照だが、とにかく目立つ。橋を渡り赤色の開運門をくぐり、仁王門の前に立つ。日蓮正嫡の道場を意味するのだろう「正嫡付法」と浮き彫りした篇額は金色、屋根の上には一対の金色の鯱鉾。これで驚いてはいけない、仁王像や梵鐘も金色なのである。宗祖日蓮上人の像は流石に青銅だが、背後の本堂はこれまた朱塗りである。なにもかもが派手な伽藍だが、風雪に絶え忍んできたものの、一部に欠損が見られる石仏二体を見つけることができた。境内東隅の客殿横に勢至菩薩(せいしぼさつ)像と十一面観音像がひっそり立っていたのである。
b0148967_1592275.jpg
石造勢至菩薩像 本圀寺(京都市山科区御陵大岩) NikonD700 Nikkor28-70mmF2.8
  
ちょっと言い方を変えれば「あっけなく見付けた」といって良いかもしれない。とういうのは佐野精一著『京の石仏』に「山積みの石材の中に二仏があることに気付いた」という記述があったからである。もしかしたら境内の何処かに紛れ込んでいるのではと思っていたが、いらぬ危惧だったようだ。両像の背面には銘文が刻んであるが、下京区の平等寺(因幡薬師)のそれのようにセメントで塗り隠されてるようなことはなかった。向かって左側の勢至菩薩像には「願主樋口平太夫家次(花押) 作者 但稱(花押)」と彫ってあり、これは広沢の池十一面千手観音像の銘文と同意である。すなわち五智山蓮華寺の復興に寄与した豪商樋口平太夫が、木喰僧坦称上人に依頼して作像したもので、紛れもなく音羽山から流失した五体の石仏のうちの二体であることは確かである。ではどうしてここにあるのだろうか。

b0148967_1594310.jpg勢至菩薩像背面銘 loupe 拡大表示 「願主樋口平太夫家次(花押) 作者 但稱(花押)」

本圀寺の寺伝によると、建長五年(1253)に日蓮上人が鎌倉松葉ヶ谷に構えた法華堂を始めとし、後に本国土妙寺として最初の祖跡寺院が創立された。ところが光厳天皇の勅諚を受けた四世日静聖人により、貞和元年(1345)に京都堀川六条へ移遷したのである。広大な伽藍を構えたが、戦後になって荒廃し、昭和三十年代に国宝級の仏像や美術品が一部の僧侶によって勝手に売却され、境内地が借金の担保になったという。そこで土地を売却して、昭和四十六年(1971) に山科の現在地に移転することになった。堀川警察署裏の墓地に蓮華寺から消えた石仏二体が置かれていることが知られていたが、これは何者かによる「盗品」であったことを寺院も知っていたようである。伽藍移転の際、本圀寺本寺の土地売却にあたっては、西本願寺等の間でスキャンダルや訴訟の類があったようだ。平等寺に安置されている毘沙門天像と金剛夜叉明王像の銘文が消されてることに関し、ある種の疑いを抱きつつ、前回曖昧に書いた。ところがその後、病床の佐野精一氏にお会いして真相を訊いた。やはり「盗品」だったそうである。移転先の二寺との間に金銭的な取引があったかどうかは知る由もない。ただ重文指定の仏像などなどなら、元の鞘に収まるだろうけど、寺宝という観点から石仏は価値が低いのだろう。雨ざらしの野仏ゆえ、流浪の旅を強いられたのかもしれない。

[PR]
by twin_lens | 2010-11-04 20:02 | 哲学宗教
蓮華寺から流失した石仏の謎
b0148967_17592515.jpg
石造金剛夜叉明王像 因幡薬師平等寺(京都市下京区不明門通松原上ル) NikonD700 Nikkor28-70mmF2.8

b0148967_2140552.jpg
拙ブログ記事「広沢池十一面千手観音像奇譚」に、御室の五智山蓮華寺の音羽山から流失した五体の石仏のひとつが、広沢の池の畔にあると書いた。そしてさらに京都市下京区の平等寺にも二仏があるようだとも。その平等寺に出かけてみた。因幡薬師の名で親しまれているが、十一面観音像を安置した観音堂は洛陽三十三所観音霊場の第27番札所である。本尊の重文薬師如来立像は、嵯峨釈迦堂(清涼寺)の釈迦如来、信濃善光寺の阿弥陀如来と共に日本三如来のひとつに数えられて信仰されている。京の町衆の会堂として、猿楽、芝居、歌舞伎の興業が行われ、浄瑠璃発祥の地ともいわれている。観音堂の右、本堂の西側に回り奥まで進むと、ブロック塀を背にした二体の石仏があった。右は毘沙門天像、左は金剛夜叉明王像である。金剛夜叉明王は怒髪忿怒相の三面、そして六本の手、所謂三面六臂像である。佐野精一著「京の石仏」には「金剛杵(こんごうしょ)などを持つ」とあるが、側面の手は形を失い、その様相は窺えない。同書には「どちらも例の背面銘があるが、何者かの仕業かセメントで塗り潰してある」とあるが、その通りである。何とか解読しようと思ったが、ちょっと無理であった。しかし佐野精一氏は、坦称上人が作像、樋口平太夫が寄進したものに間違いないと書いている。広沢の池の観音像は蓮華寺から借り出されたもので、借用状が寺に残っているという。しかしこの二体についてはどうだろうか。いかなる経緯でこの寺に流出したのだろうか。背面銘を消そうとした行為に疑惑めいたものを憶えるが、やはり余計な推測は避けよう。残る二体があるとい京都市山科区御陵大岩の本圀寺をぜひ訪ねてみようと思う。

[PR]
by twin_lens | 2010-10-23 18:00 | 哲学宗教
広沢池十一面千手観音像奇譚
b0148967_13464558.jpg
広沢池の西側を北へ少し歩くと、京都市の案内板が立っている。それによるとこの辺りは旧遍照寺の境内であったとある。史書によると遍照寺は平安時代中期、永延三年(989)に宇多天皇の孫、寛朝僧正が広沢池畔の山荘を改めて寺院にしたものだという。池中の観音島へは橋が架けられ、金色の観世音菩薩を祀る池の寺として繁栄したという。応仁の乱で廃墟と化したが、奇跡的に難を逃れた赤不動明王と十一面観音菩薩立像は草堂に移され、文政十三年(1830)に舜乗律師により復興された。現在の伽藍は広沢池の約二百メートル南、右京区嵯峨広沢西裏町にある。ところで観音島だが、十一面千手観音像が静かに立っている。金色のそれではなく無彩色の石造で、高さは約160センチ、安山岩製である。頭上には十一面の化仏をあらわし、千手脇手を持った丸彫りの石仏である。宇都宮市大谷にある千手観音のように、岩山に仏像を刻む磨崖仏ならともかく、丸彫りの石造ゆえ、脇手を伸ばすことが不可能のようだ。遠目には何やら荷を背負っていると錯覚しそうな姿であるが、空中の千手を想像するのも一興であろう。背面には「願主本国伊勢生武州江戸住家家次(花押)寛永十八年月日造立之 作但称(花押)」とある。その願主、樋口平太夫は、御室仁和寺の隣にある五智山蓮華寺の寺伝によると「豊臣家の家臣で、大阪落城後は同士とともに海外に雄飛したが、罪科に問われ同士は悉く斬られて、彼だけは死を免れた。その後江戸の材木商として財を為したが、日夜安堵に得ず、亡き同士一族の冥福を祈るため諸国遍路の旅に出る。寛永十二年(1635)入洛し、鳴滝音羽山にあった蓮華寺の荒廃を知るや再興を発願、六年の歳月をかけて寺院、石仏群を完成した」という。
b0148967_13461877.jpg
石造十一面千手観音菩薩像(京都市右京区嵯峨広沢町) NikonD700 Nikkor28-70mmF2.8

b0148967_1722830.jpg京の石仏 [古書]
佐野精一(著)
# 単行本: 271ページ
# 出版社: サンブライト出版
# ASIN: B000J8OETG
# 発売日:1978/05

その五智山蓮華寺の境内には薬師・宝生・大日・阿弥陀・釈迦の五如来石仏がある。これは樋口平太夫が木喰僧坦称上人に彫刻を依頼したものである。音戸山山頂に安置されていたが、戦後、現在の場所に移動したという。ところで広沢池の十一面千手観音像はその銘から推測できるように、蓮華寺の音羽山から流失した五体の石仏のひとつで、明治以降に借り出されという。寺には借用状が保存されているというのだ。要するに観音島に観音像が欲しい、ということだったと想像される。それでは他の四体はどうしたのだろうか。佐野精一著「京の石仏」によると、二仏は下京区不明門通松原上ルの平等寺、俗に因幡薬師と呼ばれる本堂の西にあるという。右が毘沙門天、左が金剛夜叉明王で、以上の三仏は早くから分かっていたという。そして残る二仏を発見したのは、昭和五十年(1975)秋のことで、山科区御陵大岩の本圀寺にあったという。山積みの石材の中に、十一面観音と勢至菩薩像があることに気づき、背面には例の銘があったという。ぜひ一度訪問してお目にかかりたいが、何しろ1970年代に出版された古書なので、現在どうなっているかは不明である。

[PR]
by twin_lens | 2010-10-01 18:00 | 哲学宗教
送り火を焼くのは観光寺院ではない
如意ヶ嶽の大文字や大北山の左大文字は、麓にある銀閣寺、金閣寺が焼いていると思われがちだが、そうではない。送り火が観光化し、両寺は拝観料で潤うだろうが、実は観光に縁がない無名の寺が奉仕している。この点に触れた作家の故水上勉氏のエッセーのコピーが手元にある。文末に「P・H・P」誌十一月号とあるだけだが、本文に古都税紛争で観光寺院が門を閉めたくだりや、日航ジャンボ機墜落事件に触れた記述があるので、昭和60(1985)年と推測される。もはや原文を目にする機会も稀有と想像されるので、全文をここに掲載することにした。
b0148967_10104851.jpg
如意ヶ嶽の大文字送り火 「都名所図会」安栄9(1780)年  loupe 拡大表示

五山の送り火 水上勉(作家)

ことしは久しぶりに京五山の送り火を拝んだ。周知のように、五山とは如意ヶ嶽の大文字、松ヶ崎東、西山の妙法、船山の舟、大北山の左大文字、鳥居本の曼荼羅山の鳥居である。十三日の盆に、祖先の精霊を迎えた京の家では、仏壇に供物をならべて念仏申しあげ、家内安全息災を祈願するとともに、精霊を弔うのだが、十六はその精霊が、ふたたび彼岸へ帰ってゆくのを送らねばならない。火はつまり、その仏徒たちの昔から行ってきた精霊送りだ。

調べてみると、これらの火は、五山の保存会のメンバーによって焼かれ、一般の人は仲間に入らない。昔から寺の信徒にその役があり、しかも、若衆とよばれた青年たちによって、焼かれるところもある。不思議なことに、それらの寺は有名寺院ではない。有名寺院といえば、京都ではみな観光寺院になってしまうが、火を焼く寺は、殆ど観光とは無縁といっていいだろう。

まず銀閣寺前にある浄土院が如意ヶ嶽の大文字を焼き、松ヶ崎は湧泉寺、船山は西方寺、大北山は法恩寺、鳥居本には寺はない。古くからの保存会の持ち山で、町衆が焼くのだそうだ。焼かれる護摩木は寺でつくられ、寺に詣でた善男善女が、新仏の法名や、俗名を書いて護摩料を払うのである。新仏の出なかった家は、先祖代々の霊だとか、一家の安全息災を祈ることばを書く場合もある。いずれにしても、これらの木をあつめて、背負って山へのぼり、汗だくになって焼く人々はみな、無名の信者たちである。この行事が何百年とつづいて、今日も燃えつづけた。なかった年は、敗戦の年とその翌々年までの三年だけで、昭和二十三年から休んだことがない。つまり、仏を送る信心に休みがないということであって、本心は、敗戦の年まわりこそ、大勢の死者が広島や長崎にあふれ、爆災都市にも、たくさんの焼死体がころがっていたのだから、京の町衆は送り火だけは焼きたかっただろう。ところが占領下であったために、遠慮しなければならなかった、とつたえられる。それにしても、この行事が、古くからの信者たちによって、手弁当で行われてきたことに私は心を打たれる。今は京の観光の目玉ともなり、どのホテルも満員の外来客を迎えてほくほくだが、じつはその送り火そのものは、観光とは無関係に、信心の証として、保存会の家々がうけついできている。

そこで、思うのだが、私たちは、大文字といえば銀閣寺を頭にうかべ、左大文字といえば金閣寺を頭にうかべ、有名な相国寺派別格地の両寺が焼くように思いがちだ。そうではない。護摩木は観光客に売りはするけれど、山へのぼって焼くのは、ほかの寺の信徒がやっていたのである。しつこいようだが、このことにこだわるのは、凡庸な俗界にあって、信心の火を観光寺院に見ることが出来なくなった、ということを、五山の火は教えたからである。伝によれば、如意ヶ嶽の大文字は、銀閣慈照寺を創建した足利義政がはじめたともいう。とすれば銀閣寺はやはり、火の元だったわけだが、いまは門前の浄土寺が、汗だくになって護摩木を背負い運び、当夜は、弘法大師像を安置するカナオの堂前で、読経し、住職の合図で火がつけられる。
b0148967_10111919.jpg
仏足石 京都市左京区銀閣寺町の浄土院
Zero4x5 Pinhole Camera Provia100F

ことしの送り火はいろいろなことを考えさせた。銀閣寺も金閣寺も古都税問題で(つまりゼニのことで)門を閉めて人を入れなかったりした。ところが、どういう相談ができたか、急に市当局と握手して、門がひらかれた。門をひらくことは賛成だが、なぜ門を閉めたかのか、庶民にはよくわからなかった。法灯を守るというのが理由のようだった。だが十六日の法の火は、観光と関係ない信心の徒をあつめる無名寺院が汗だくで焼いていたのである。送り火は死者を送るのだから、生者のよろこびだ。生者といっても、いつ朝露の如き命を落とさねばならぬかわかったものではない。安全と信じた大型飛行機が、とつぜん五百名以上の乗客もろとも、山にぶつかって燃えあがるこの頃である。

われわれはコンピュータ文明の世を生き、平和だといっている。一億総中流だともいっている。寿命ものび、老後に年金も入り、ゲートボールも楽しめ、しあわせな国に生きている思いが国民の大半を占めている、という。本当にそのように平穏だろうか。五山の送り火は、何百年と同じ火を燃やしながら、新しい何かを私にささやいた。何をささやかれたかを語るには枚数が足りない。火を拝んで、私は今日つかのまを生きておれたことを感謝したとだけいっておく。

[PR]
by twin_lens | 2010-08-11 16:03 | 哲学宗教
浄土を夢見た庶民の願いが石仏に託された
b0148967_16345266.jpg
清水寺石仏群  loupe 拡大表示
NikonD700 Nikkor28-70mmF2.8

b0148967_185166.jpg仁王門をくぐり、随求堂の前に出る。石の道標があり、右が舞台がある本堂、左は成就院と矢印が指し示している。観光客の流れは当然のように右に折れて行くが、左に逸れる。すると右手の斜面に突然石像の群れが現れた。大日如来、千手観音、地蔵菩薩、そして二尊仏とさまざまである。風雪で目鼻の輪郭が乏しくなったものが多く、かなり古いものも含まれているようだ。京都は地蔵信仰が厚い土地である。各町内の大日堂や地蔵堂などに石仏を祀って地蔵盆会を営んできた。ところが明治の廃仏毀釈によってその多くが紙屋川や鴨川に捨てられたという。それでは余りにもも可哀想というわけで、壬生寺やこの清水寺などの寺院にも運び込まれたようだ。
b0148967_950273.jpg
庶民の信仰の深さが石仏たちを救ったのである。石仏は一般に「お地蔵さん」と呼びがちだが、前述の通り、さまざまな像が彫られている。これまた当ブログで触れた記憶があるのだが、中世に於いて庶民は墓を造ることができなかった。だからこのような小石仏を彫って死者を弔ったのである。この像は二尊仏が、かろうじて残った凹凸のその陰影に、来世に西方浄土を夢見た往時の庶民の願いが、時空を超えて伝わってくる。見上げると、斜面上の木々の間から細く美しい光線が漏れていた。
[PR]
by twin_lens | 2010-02-10 16:37 | 哲学宗教
雨もよし晴れるもよし雨奇晴好は仏教の悟り
b0148967_19195235.jpg
前回、釘抜き地蔵の記事で触れた仲源寺、通称目疾(めやみ)地蔵に寄ってみた。寺は京都祇園、南座の少し東にある。繁華街のど真ん中だが、桃山時代の唐門が舗道のアーケードに隠れ、うっかり見落とす人が結構いるようだ。ふだんは本堂の延命地蔵菩薩坐像の前に格子戸があるが、節分のこの季節、明け放たれている。木箱には一年間、各家庭に置かれていた無病息災祈願の小さな起き上がり達磨人形が返納され、人々は次々に新しい達磨を求めて行く。寺務所でいただいた参拝の栞には、大正時代に第21世説阿快善住職が記した目疾地蔵の略縁起が復刻されている。
b0148967_19174859.jpg
安貞2(1228)年、暴風雨で鴨川が氾濫したが、四条河原の小堂の地蔵菩薩のお陰で、溺れかかった人が水面に浮かび上った。そして「中原」の傍らに人と水を添えて「仲源寺」と名付けたという。以来人々は「雨止(あめやみ)地蔵」と呼ぶようになったという。この地蔵を熱心に信仰する宗円、妙昌という老夫婦が錦小路にいた。宗円が眼を患い盲目となった。ところが夢の中に地蔵が出てきて、身代わりになって病の苦しみを救ってくれるという。妙昌が仲源寺の水を汲んで目を洗うと視力が快復した。ところがその代わりに地蔵の目が赤くなってしまった。その跡が今でもあり、人々は「目疾(めやみ)地蔵」と称するにようになった。「あ」の一字が取れて地蔵の名が転じたという伝説である。
b0148967_19181223.jpg
医学が発達した現代だが、さまざまな眼病に悩む人たちの参拝が絶えないという。境内の一角の祠に千羽鶴が吊ってあった。病気快癒の願いが託されているのだろう。爽やかな風が通り抜け、鶴たちが大きく揺れた。翼が羽ばたき、今にも飛び立ちそうに見えた。再び四条通の喧騒に戻り、唐門を見上げたら扁額に「雨奇晴好」とあった。雨もよし、晴れるもよし。人生は必ずしも順調ではない。しかし悲運、逆境にひしがれていては駄目だと諭したものだろう。

京都市東山区四条通大和大路東入ル
Nikon D40 Nikkor18-55mm F3.5-4.6
[PR]
by twin_lens | 2010-02-03 19:18 | 哲学宗教
丹念な筆遣いの般若心経にこもる切なる願い
b0148967_2004766.jpg
京都市上京区千本通上立売上る
NikonD700 Nikkor28-70mmF2.8 loupe 拡大表示

b0148967_20524845.jpg京都には病気平癒を祈願する社寺が多い。というより人間にとって一番の厄介ごとは病気あり、であるからこそ社寺を参詣して「ご利益」に預かろうとするのかもしれない。新京極通にある蛸薬師堂(永福寺)はガン封じで知られてるし、四条通の南座東にある目疾(めやみ)地蔵(仲源寺)は眼病平癒で有名である。いずれも通称寺で、正式な寺名より通り名のほうが浸透しているのが特長である。千本通の釘抜き地蔵(石像寺)を久しぶりに訪ねてみた。 弘仁10(819)年に弘法大師が開いたと伝えられ、本堂に地蔵菩薩像(釘抜き地蔵)が安置されている。山門をくぐると目に飛び込んでくるのが、本堂の外壁を埋め尽くした実物大の八寸釘と釘抜きを張り付けた御礼札である。要するに釘抜きで病気の苦しみを抜き取ってくれるというのだ。病気平癒あるいは健康を祈願する参詣者は、竹の札を歳と同じ数だけ持ち、この地蔵堂を一周するごとに箱に納めて行くのである。この日も二人のご婦人が、堂を回りながら熱心に祈っていた。
b0148967_2024168.jpg
このユニークな地蔵堂に目を奪われ勝ちだが、境内裏手にある小堂に安置されてる石仏は文化財として貴重だと言う。一般に石仏は野仏と呼ばれるくらいだから、その生い立ちについては不明なものがほとんどである。ところがここにある石造阿弥陀如来坐像と、脇侍である観音・勢至菩薩像は、その由来が分かっている。真ん中の阿弥陀像にの光背の銘によって、伊勢権守佐伯朝臣為家という人が願主となって元仁2(1225)年に造像されたことが分かるという。ゆえに重要文化財に指定されているようだ。鎌倉時代の石仏といえば、私は化野念仏寺の山門前にある、釈迦・阿弥陀の二尊仏の美しさに強く惹かれる。傑作だと思うが、記録がないので無指定である。小堂の竹柵に夥しい数の涎掛けが巻きつけられていた。庶民にとって石仏はすべて地蔵菩薩なのだろう。丹念な筆遣いの般若心経に、切なる願いがこもっている。
[PR]
by twin_lens | 2010-02-01 21:23 | 哲学宗教
おみくじ絵馬はやがて儚き荼毘に
b0148967_11144620.jpg
昨年暮れ、初詣に備えて上賀茂神社に設置されたおみくじ用の縄の写真を掲載した。その時に「正月に再び撮ってみようと思っている」と書いたが、報告するのをすっかり忘れていた。もう松も取れて、いささか色褪せたものになってしまったが、これがその写真である。ご覧のように円錐状におみくじが吊るされて面白い。
b0148967_11163371.jpg
おみくじと言えば、神社にとって正月はその稼ぎ時に違いない。近所の北野天満宮も新たに縄が張られていた。もっとも境内の梅の枝に結ばれることを防ぐ狙いもあるようだ。下鴨神社のおみくじは色紙を使い、綺麗である。これは縁結びのおみくじを謳ったものだ。女性の参詣客のそれが圧倒的に多いと観察した。
b0148967_11215776.jpg
縁結びといえば、地主神社が雑誌などに取り上げられて有名だが、上賀茂神社片岡社は見逃せない。このハート形の絵馬には、紫式部が「ほととぎす声まつほどは片岡のもりのしづくに立ちやぬれまし」(新古今和歌集:第三巻 夏歌)と詠んだ和歌がプリントされている。ほととぎすというのは、未来の夫のことで、紫式部は何度もここにお参りしたという。loupe 拡大表示
b0148967_11512238.jpg
絵馬で連想するのが、このシーズン、北野天満宮の合格祈願のそれである。夥しい数の絵馬が奉納されている。初詣がてら参詣したものが多いようだが、これからも増えるに違いない。観察すると、絵馬掛けはすぐに満杯になってしまう。一体、その行方はどうなるのだろうか、という俗な興味が湧いてくる。焼却するのだろう。
b0148967_11565592.jpg
釘抜き地蔵の名で親しまれてる石像寺の地蔵堂は、実物大の八寸釘と釘抜きを張り付けた絵馬で外壁が埋め尽くされている。これとは別に寺務所で小さな達磨を求めることができる。無病息災を願い家に持ち帰る。一年を経ると寺に返納するが、その行方、撮ってはいけない写真を撮ってしまったという恐れがあるが、人もまた同じ運命を辿るのである。

NikonD700 Nikkor28-70mmF2.8 and Nikon CoolPix5700
[PR]
by twin_lens | 2010-01-13 12:04 | 哲学宗教