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カテゴリ:哲学宗教( 18 )
河原町カトリック教会東門神父の聖書講座を思い出す
私はブルーグラス音楽が好きなので WAMU’s Bluegrass Country などのインターネットラジオを聴くことが多い。ところがこのシーズンになるとクリスマス音楽が流れ始めるので辟易とする。京都の商店街もそのうち「ジングルベの喧騒が始まるのだろう。クリスマスはキリスト教の行事だが、しばしばその範疇を超えることがあるようだ。かなり昔、私の少年時代にはクリスマスイブになると、三角帽を頭にした酔客がケーキをぶら下げて帰宅、その姿の写真がが翌朝の新聞に掲載されたことを憶えている。さすがに昨今はその姿を見かけない。
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ポインセチア 京都府立植物園(都市左京区下鴨半木町)

幼少期と中学生時代などをニューヨークで過ごした井上多恵子さんの「想いを英語に託せば」によると、宗教上の理由でクリスマスを祝わないユダヤ教徒らは、Season’s Greetings(時候のあいさつ)と書かれたカードを使うという。なるほど、非キリスト教徒が Merry Christmas というカードを出すのはおかしい。その点、ある意味で宗教色が薄いと言われる日本人はキリスト教徒ではなくともクリスマスに反発しないようだ。というよりイブになると京都の河原町カトリック教会などは、俄か信者の若いカップルで一杯になるから面白い。非キリスト教徒向けのミサを「クリスマス市民の集い」と教会が称して信者のそれと区別している。河原町カトリック教会といえば、毎週1年間通ったことがある。

東門陽二郎神父の講義を聴く為に聖書講座に通ったのだ。東門神父はニチメン実業の創始者の家庭に生まれた。京都大学医学部を卒業、後にカトリック神学院へ入学、ローマ法皇庁へ派遣され、哲学、神学を学んでいる。いわば科学者から宗教家に転じたかたである。宗教学上の興味で受講、たいへん勉強になったが、信仰に傾くことはなかった。何度も質問したイエズスの「復活」について、絶妙のご返答をいただいたが、やはりそれを受容できない自分を再認識したからだ。クリスマス音楽、カードと共に、このシーズンになると東門神父の講義を思い出す。

by twin_lens | 2010-12-12 08:58 | 哲学宗教
石仏に見る盛者必衰の無常
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阿弥陀如来座像 真如堂(京都市左京区浄土寺真如町) NikonD700 Nikkor28-70mmF2.8
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頭部が欠けた石仏 真如堂(京都市左京区浄土寺真如町) NikonD700 Nikkor28-70mmF2.8

墓地は石造彫刻の宝庫と言えるかもしれない。例えば法然院の墓地には滋賀県東近江市にある石塔寺の重文三重塔「阿育王塔」のコピーがあったりして興味深い。ご存知嵯峨野の化野念仏寺の賽の河原は、いわば八千の仏の墓地である。補陀洛寺の墓地には小野小町の供養塔がある。五重の層塔で、薬師・釈迦・弥陀・弥勒の四方仏が彫られている。その形式から鎌倉後期の造立らしいが、一番奥には300体もの石仏がずらりと並んでいる。私はこのように寺を訪ねると墓地を見ることにしている。思わぬ発見があるからだ。真如堂(真正極楽寺)にも夥しい数の石仏があり、本堂の南側にコンクリートで固めた地蔵塚がある。横に「木食正禅造立」と刻まれた蓮弁の石の台座があり、鎌倉の大仏を小ぶりにした阿弥陀如来露仏が目につく。私はその裏に密かに佇んでいる石仏群が好きだ。
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頭部が残った石仏 金戒光明寺(京都市左京区黒谷町) NikonD700 Nikkor28-70mmF2.8
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無縁墓石供養塔 金戒光明寺(京都市左京区黒谷町) NikonD700 Nikkor28-70mmF2.8

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真如堂から少し南に歩くと会津藩士352名の墓所の菩提寺である西雲院に出る。法然上人が座ったと伝わる「紫雲石」で知られるが、ここにも金剛夜叉明王像などの石仏が安置されている。境内から山門を抜けると、金戒光明寺の広大な墓地に出る。そこで目に飛び込んで来るのは、様々な理由で整理された無縁墓石群である。その墓石に埋まる感じで残されている石仏の頭部がある。頭部だけなので、釈迦如来か阿弥陀如来か私には判別がつかないのが残念である。前からずっと気になっているものだが、何故かガンダーラ仏、あるいはさらに遥かのギリシャ彫刻を連想させられる表情をしている。大袈裟にいえば、イスタンブルの地下宮殿の柱の礎石になっているメデューサの様相を思い出すのである。このような形で放置されているなら、家に持ち帰りたいところだが、そうはいかないだろう。さらに南に下ると、今度は無縁墓石供養塔が聳え立っている。塔の上には阿弥陀如来像が座しているが、諸行無常、石の造物もまた永遠にあらずと感じ入る。平家物語ではないが、盛者必衰の姿がここに具現化している。

by twin_lens | 2010-12-02 19:26 | 哲学宗教
続・蓮華寺から流失した石仏の謎
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京都市山科区御陵大岩の本圀寺に出かけてみた。御室仁和寺の隣にある五智山蓮華寺の音羽山から流失した二体の石仏があるという。京都市営地下鉄東西線御陵駅で降り、三条通から案内標識を頼りに急勾配の坂道を上ると、琵琶湖疏水に出た。桜の名所だが、辺りはすっかり秋の気配、その葉が色づいている。疏水沿いに東へしばらく歩くと、朱塗りの正嫡橋(写真右)が目に飛び込んできた。近代化遺産ともいえる疏水の素朴なコンクリートと好対照だが、とにかく目立つ。橋を渡り赤色の開運門をくぐり、仁王門の前に立つ。日蓮正嫡の道場を意味するのだろう「正嫡付法」と浮き彫りした篇額は金色、屋根の上には一対の金色の鯱鉾。これで驚いてはいけない、仁王像や梵鐘も金色なのである。宗祖日蓮上人の像は流石に青銅だが、背後の本堂はこれまた朱塗りである。なにもかもが派手な伽藍だが、風雪に絶え忍んできたものの、一部に欠損が見られる石仏二体を見つけることができた。境内東隅の客殿横に勢至菩薩(せいしぼさつ)像と十一面観音像がひっそり立っていたのである。
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石造勢至菩薩像 本圀寺(京都市山科区御陵大岩) NikonD700 Nikkor28-70mmF2.8
  
ちょっと言い方を変えれば「あっけなく見付けた」といって良いかもしれない。とういうのは佐野精一著『京の石仏』に「山積みの石材の中に二仏があることに気付いた」という記述があったからである。もしかしたら境内の何処かに紛れ込んでいるのではと思っていたが、いらぬ危惧だったようだ。両像の背面には銘文が刻んであるが、下京区の平等寺(因幡薬師)のそれのようにセメントで塗り隠されてるようなことはなかった。向かって左側の勢至菩薩像には「願主樋口平太夫家次(花押) 作者 但稱(花押)」と彫ってあり、これは広沢の池十一面千手観音像の銘文と同意である。すなわち五智山蓮華寺の復興に寄与した豪商樋口平太夫が、木喰僧坦称上人に依頼して作像したもので、紛れもなく音羽山から流失した五体の石仏のうちの二体であることは確かである。ではどうしてここにあるのだろうか。

b0148967_1594310.jpg勢至菩薩像背面銘 loupe 拡大表示 「願主樋口平太夫家次(花押) 作者 但稱(花押)」

本圀寺の寺伝によると、建長五年(1253)に日蓮上人が鎌倉松葉ヶ谷に構えた法華堂を始めとし、後に本国土妙寺として最初の祖跡寺院が創立された。ところが光厳天皇の勅諚を受けた四世日静聖人により、貞和元年(1345)に京都堀川六条へ移遷したのである。広大な伽藍を構えたが、戦後になって荒廃し、昭和三十年代に国宝級の仏像や美術品が一部の僧侶によって勝手に売却され、境内地が借金の担保になったという。そこで土地を売却して、昭和四十六年(1971) に山科の現在地に移転することになった。堀川警察署裏の墓地に蓮華寺から消えた石仏二体が置かれていることが知られていたが、これは何者かによる「盗品」であったことを寺院も知っていたようである。伽藍移転の際、本圀寺本寺の土地売却にあたっては、西本願寺等の間でスキャンダルや訴訟の類があったようだ。平等寺に安置されている毘沙門天像と金剛夜叉明王像の銘文が消されてることに関し、ある種の疑いを抱きつつ、前回曖昧に書いた。ところがその後、病床の佐野精一氏にお会いして真相を訊いた。やはり「盗品」だったそうである。移転先の二寺との間に金銭的な取引があったかどうかは知る由もない。ただ重文指定の仏像などなどなら、元の鞘に収まるだろうけど、寺宝という観点から石仏は価値が低いのだろう。雨ざらしの野仏ゆえ、流浪の旅を強いられたのかもしれない。

by twin_lens | 2010-11-04 20:02 | 哲学宗教
蓮華寺から流失した石仏の謎
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石造金剛夜叉明王像 因幡薬師平等寺(京都市下京区不明門通松原上ル) NikonD700 Nikkor28-70mmF2.8

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拙ブログ記事「広沢池十一面千手観音像奇譚」に、御室の五智山蓮華寺の音羽山から流失した五体の石仏のひとつが、広沢の池の畔にあると書いた。そしてさらに京都市下京区の平等寺にも二仏があるようだとも。その平等寺に出かけてみた。因幡薬師の名で親しまれているが、十一面観音像を安置した観音堂は洛陽三十三所観音霊場の第27番札所である。本尊の重文薬師如来立像は、嵯峨釈迦堂(清涼寺)の釈迦如来、信濃善光寺の阿弥陀如来と共に日本三如来のひとつに数えられて信仰されている。京の町衆の会堂として、猿楽、芝居、歌舞伎の興業が行われ、浄瑠璃発祥の地ともいわれている。観音堂の右、本堂の西側に回り奥まで進むと、ブロック塀を背にした二体の石仏があった。右は毘沙門天像、左は金剛夜叉明王像である。金剛夜叉明王は怒髪忿怒相の三面、そして六本の手、所謂三面六臂像である。佐野精一著「京の石仏」には「金剛杵(こんごうしょ)などを持つ」とあるが、側面の手は形を失い、その様相は窺えない。同書には「どちらも例の背面銘があるが、何者かの仕業かセメントで塗り潰してある」とあるが、その通りである。何とか解読しようと思ったが、ちょっと無理であった。しかし佐野精一氏は、坦称上人が作像、樋口平太夫が寄進したものに間違いないと書いている。広沢の池の観音像は蓮華寺から借り出されたもので、借用状が寺に残っているという。しかしこの二体についてはどうだろうか。いかなる経緯でこの寺に流出したのだろうか。背面銘を消そうとした行為に疑惑めいたものを憶えるが、やはり余計な推測は避けよう。残る二体があるとい京都市山科区御陵大岩の本圀寺をぜひ訪ねてみようと思う。

by twin_lens | 2010-10-23 18:00 | 哲学宗教
広沢池十一面千手観音像奇譚
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広沢池の西側を北へ少し歩くと、京都市の案内板が立っている。それによるとこの辺りは旧遍照寺の境内であったとある。史書によると遍照寺は平安時代中期、永延三年(989)に宇多天皇の孫、寛朝僧正が広沢池畔の山荘を改めて寺院にしたものだという。池中の観音島へは橋が架けられ、金色の観世音菩薩を祀る池の寺として繁栄したという。応仁の乱で廃墟と化したが、奇跡的に難を逃れた赤不動明王と十一面観音菩薩立像は草堂に移され、文政十三年(1830)に舜乗律師により復興された。現在の伽藍は広沢池の約二百メートル南、右京区嵯峨広沢西裏町にある。ところで観音島だが、十一面千手観音像が静かに立っている。金色のそれではなく無彩色の石造で、高さは約160センチ、安山岩製である。頭上には十一面の化仏をあらわし、千手脇手を持った丸彫りの石仏である。宇都宮市大谷にある千手観音のように、岩山に仏像を刻む磨崖仏ならともかく、丸彫りの石造ゆえ、脇手を伸ばすことが不可能のようだ。遠目には何やら荷を背負っていると錯覚しそうな姿であるが、空中の千手を想像するのも一興であろう。背面には「願主本国伊勢生武州江戸住家家次(花押)寛永十八年月日造立之 作但称(花押)」とある。その願主、樋口平太夫は、御室仁和寺の隣にある五智山蓮華寺の寺伝によると「豊臣家の家臣で、大阪落城後は同士とともに海外に雄飛したが、罪科に問われ同士は悉く斬られて、彼だけは死を免れた。その後江戸の材木商として財を為したが、日夜安堵に得ず、亡き同士一族の冥福を祈るため諸国遍路の旅に出る。寛永十二年(1635)入洛し、鳴滝音羽山にあった蓮華寺の荒廃を知るや再興を発願、六年の歳月をかけて寺院、石仏群を完成した」という。
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石造十一面千手観音菩薩像(京都市右京区嵯峨広沢町) NikonD700 Nikkor28-70mmF2.8

b0148967_1722830.jpg京の石仏 [古書]
佐野精一(著)
# 単行本: 271ページ
# 出版社: サンブライト出版
# ASIN: B000J8OETG
# 発売日:1978/05

その五智山蓮華寺の境内には薬師・宝生・大日・阿弥陀・釈迦の五如来石仏がある。これは樋口平太夫が木喰僧坦称上人に彫刻を依頼したものである。音戸山山頂に安置されていたが、戦後、現在の場所に移動したという。ところで広沢池の十一面千手観音像はその銘から推測できるように、蓮華寺の音羽山から流失した五体の石仏のひとつで、明治以降に借り出されという。寺には借用状が保存されているというのだ。要するに観音島に観音像が欲しい、ということだったと想像される。それでは他の四体はどうしたのだろうか。佐野精一著「京の石仏」によると、二仏は下京区不明門通松原上ルの平等寺、俗に因幡薬師と呼ばれる本堂の西にあるという。右が毘沙門天、左が金剛夜叉明王で、以上の三仏は早くから分かっていたという。そして残る二仏を発見したのは、昭和五十年(1975)秋のことで、山科区御陵大岩の本圀寺にあったという。山積みの石材の中に、十一面観音と勢至菩薩像があることに気づき、背面には例の銘があったという。ぜひ一度訪問してお目にかかりたいが、何しろ1970年代に出版された古書なので、現在どうなっているかは不明である。

by twin_lens | 2010-10-01 18:00 | 哲学宗教
送り火を焼くのは観光寺院ではない
如意ヶ嶽の大文字や大北山の左大文字は、麓にある銀閣寺、金閣寺が焼いていると思われがちだが、そうではない。送り火が観光化し、両寺は拝観料で潤うだろうが、実は観光に縁がない無名の寺が奉仕している。この点に触れた作家の故水上勉氏のエッセーのコピーが手元にある。文末に「P・H・P」誌十一月号とあるだけだが、本文に古都税紛争で観光寺院が門を閉めたくだりや、日航ジャンボ機墜落事件に触れた記述があるので、昭和60(1985)年と推測される。もはや原文を目にする機会も稀有と想像されるので、全文をここに掲載することにした。
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如意ヶ嶽の大文字送り火 「都名所図会」安栄9(1780)年  loupe 拡大表示

五山の送り火 水上勉(作家)

ことしは久しぶりに京五山の送り火を拝んだ。周知のように、五山とは如意ヶ嶽の大文字、松ヶ崎東、西山の妙法、船山の舟、大北山の左大文字、鳥居本の曼荼羅山の鳥居である。十三日の盆に、祖先の精霊を迎えた京の家では、仏壇に供物をならべて念仏申しあげ、家内安全息災を祈願するとともに、精霊を弔うのだが、十六はその精霊が、ふたたび彼岸へ帰ってゆくのを送らねばならない。火はつまり、その仏徒たちの昔から行ってきた精霊送りだ。

調べてみると、これらの火は、五山の保存会のメンバーによって焼かれ、一般の人は仲間に入らない。昔から寺の信徒にその役があり、しかも、若衆とよばれた青年たちによって、焼かれるところもある。不思議なことに、それらの寺は有名寺院ではない。有名寺院といえば、京都ではみな観光寺院になってしまうが、火を焼く寺は、殆ど観光とは無縁といっていいだろう。

まず銀閣寺前にある浄土院が如意ヶ嶽の大文字を焼き、松ヶ崎は湧泉寺、船山は西方寺、大北山は法恩寺、鳥居本には寺はない。古くからの保存会の持ち山で、町衆が焼くのだそうだ。焼かれる護摩木は寺でつくられ、寺に詣でた善男善女が、新仏の法名や、俗名を書いて護摩料を払うのである。新仏の出なかった家は、先祖代々の霊だとか、一家の安全息災を祈ることばを書く場合もある。いずれにしても、これらの木をあつめて、背負って山へのぼり、汗だくになって焼く人々はみな、無名の信者たちである。この行事が何百年とつづいて、今日も燃えつづけた。なかった年は、敗戦の年とその翌々年までの三年だけで、昭和二十三年から休んだことがない。つまり、仏を送る信心に休みがないということであって、本心は、敗戦の年まわりこそ、大勢の死者が広島や長崎にあふれ、爆災都市にも、たくさんの焼死体がころがっていたのだから、京の町衆は送り火だけは焼きたかっただろう。ところが占領下であったために、遠慮しなければならなかった、とつたえられる。それにしても、この行事が、古くからの信者たちによって、手弁当で行われてきたことに私は心を打たれる。今は京の観光の目玉ともなり、どのホテルも満員の外来客を迎えてほくほくだが、じつはその送り火そのものは、観光とは無関係に、信心の証として、保存会の家々がうけついできている。

そこで、思うのだが、私たちは、大文字といえば銀閣寺を頭にうかべ、左大文字といえば金閣寺を頭にうかべ、有名な相国寺派別格地の両寺が焼くように思いがちだ。そうではない。護摩木は観光客に売りはするけれど、山へのぼって焼くのは、ほかの寺の信徒がやっていたのである。しつこいようだが、このことにこだわるのは、凡庸な俗界にあって、信心の火を観光寺院に見ることが出来なくなった、ということを、五山の火は教えたからである。伝によれば、如意ヶ嶽の大文字は、銀閣慈照寺を創建した足利義政がはじめたともいう。とすれば銀閣寺はやはり、火の元だったわけだが、いまは門前の浄土寺が、汗だくになって護摩木を背負い運び、当夜は、弘法大師像を安置するカナオの堂前で、読経し、住職の合図で火がつけられる。
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仏足石 京都市左京区銀閣寺町の浄土院
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ことしの送り火はいろいろなことを考えさせた。銀閣寺も金閣寺も古都税問題で(つまりゼニのことで)門を閉めて人を入れなかったりした。ところが、どういう相談ができたか、急に市当局と握手して、門がひらかれた。門をひらくことは賛成だが、なぜ門を閉めたかのか、庶民にはよくわからなかった。法灯を守るというのが理由のようだった。だが十六日の法の火は、観光と関係ない信心の徒をあつめる無名寺院が汗だくで焼いていたのである。送り火は死者を送るのだから、生者のよろこびだ。生者といっても、いつ朝露の如き命を落とさねばならぬかわかったものではない。安全と信じた大型飛行機が、とつぜん五百名以上の乗客もろとも、山にぶつかって燃えあがるこの頃である。

われわれはコンピュータ文明の世を生き、平和だといっている。一億総中流だともいっている。寿命ものび、老後に年金も入り、ゲートボールも楽しめ、しあわせな国に生きている思いが国民の大半を占めている、という。本当にそのように平穏だろうか。五山の送り火は、何百年と同じ火を燃やしながら、新しい何かを私にささやいた。何をささやかれたかを語るには枚数が足りない。火を拝んで、私は今日つかのまを生きておれたことを感謝したとだけいっておく。

by twin_lens | 2010-08-11 16:03 | 哲学宗教
浄土を夢見た庶民の願いが石仏に託された
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清水寺石仏群  loupe 拡大表示
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b0148967_185166.jpg仁王門をくぐり、随求堂の前に出る。石の道標があり、右が舞台がある本堂、左は成就院と矢印が指し示している。観光客の流れは当然のように右に折れて行くが、左に逸れる。すると右手の斜面に突然石像の群れが現れた。大日如来、千手観音、地蔵菩薩、そして二尊仏とさまざまである。風雪で目鼻の輪郭が乏しくなったものが多く、かなり古いものも含まれているようだ。京都は地蔵信仰が厚い土地である。各町内の大日堂や地蔵堂などに石仏を祀って地蔵盆会を営んできた。ところが明治の廃仏毀釈によってその多くが紙屋川や鴨川に捨てられたという。それでは余りにもも可哀想というわけで、壬生寺やこの清水寺などの寺院にも運び込まれたようだ。
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庶民の信仰の深さが石仏たちを救ったのである。石仏は一般に「お地蔵さん」と呼びがちだが、前述の通り、さまざまな像が彫られている。これまた当ブログで触れた記憶があるのだが、中世に於いて庶民は墓を造ることができなかった。だからこのような小石仏を彫って死者を弔ったのである。この像は二尊仏が、かろうじて残った凹凸のその陰影に、来世に西方浄土を夢見た往時の庶民の願いが、時空を超えて伝わってくる。見上げると、斜面上の木々の間から細く美しい光線が漏れていた。
by twin_lens | 2010-02-10 16:37 | 哲学宗教
大晦日のブルームーンではないけど正月は
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おみくじを結ぶ縄
京都・上賀茂神社
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上賀茂神社に出かけたら円錐状に吊った縄があった。初詣客がおみくじを結ぶそうだ。鈴なりになるというので、正月に再び撮ってみようと思っている。ところでSCIENCE@NASAに「大晦日のブルームーン」という興味深い記事が掲載されている。太陰周期は29.5日なのだが、ひと月に2回ある満月をブルームーンと呼び、およそ2.5年ごとにあるという。今宵は2日に続いて満月になり、珍しい大晦日のブルームーンだという。ただし地域によって若干のズレがある。

次の満月は日本時間の元日午前4時13分なので、残念ながら日本では大晦日のブルームーンにならないという。この時間にまだ2009年大晦日の国がブルームーンということになるようだ。その代わり、日本では2010年1月30日が満月なので、正月のブルームーンを見ることができることになる。それではみなさん、良いお年を。
by twin_lens | 2009-12-31 10:00 | 哲学宗教
春待月京都嵯峨野石仏遊行記
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清滝隋道の手前「愛宕寺前」で京都バスを降りると、すぐ目の前が愛宕念仏寺の仁王門だった。愛宕という地名は全国にあるが、正しくは「おたぎ」と読む。門をくぐると羅漢が迎えてくれた。坂を上って本堂前に出ると、その数はさらに増し、山あいの斜面にまでびっしり並んでいる。五百羅漢という言葉は釈迦の涅槃時に立ち会った弟子たちの数に由来するが、境内にはなんと千二百体の像が奉納されてるそうだ。羅漢の他に不動明王立像もあった。普通は憤怒の相をしているが、何となく優しい顔に見えるのは気のせいだろうか。寺を辞して、旧愛宕街道沿いに歩くと、もうひとつの念仏寺に着いた。
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石段を登ると、山門の手前にふたつの石仏が並んでいる。中世、庶民は墓を建てることを禁じられていたので、代わりに小さな石仏を造って死者の冥福を祈願したという。化野(あだしの)念仏寺は賽の河原にある夥しい数の石仏で知られるが、この二仏は見逃し気味のようだ。向かって左が釈迦、右が阿弥陀菩薩坐像である。境内の小石仏と違って、明らかにプロの石工の手になるもので、鎌倉末期の傑作と言われている。
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石段を下ると、涎掛けをした地蔵があった。六地蔵かと思い数を数えたら、八体あった。すでに初冬、落ち葉が野の仏の傍らを埋めている。参道入り口に戻り、振り返ると「あだしの念佛寺」と彫った立派な道標石が目に止まる。これまた拝観料を払わずに鑑賞できるが、観光客は目もくれず通り過ぎて行く。茶店が立ち並ぶ街道を下ると、二股の分かれ道に石仏が並んでいるのが目に飛び込んできた。
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俗に言う「八体地蔵」である。何故八体なのか、その理由は不明である。念仏寺境内の石仏もそうだが、すべてが地蔵菩薩ではない。この八体も、地蔵の他に阿弥陀、そして二尊仏などが混ざっている。この辺りの地名は嵯峨鳥居本仏餉田町というが、右に進めば祇王寺や二尊院、落柿舎に出る。しかし左を歩くことにした。大沢の池の野仏を見たいからだ。しばらく退屈な住宅街が続いたが、バス道を横断すると田園風景に急変、何と遅がけのコスモスが咲き乱れている。大覚寺に着くと、山門を通り越し、まっしぐらに大沢池を目指した。
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ところが仮設の小屋があり、拝観料が徴収されるという。どうやら春の桜、秋の紅葉シーズンの特別措置らしい。ここまで歩いてきたので引き帰すわけにはいかず、渋々500円払って池の畔に出た。大沢池の石仏群は古くから写真愛好家の対象となってきたようだ。木々に囲まれて、木漏れ日が一部の石仏に差している。もう少し早い時間に到着していれば全体に日が差しただろうと悔やまれる。何しろ背後の樹木の向こう側はカンカン照りで、露出許容度が低いデジタルカメラが苦手とする撮影条件になっているからだ。
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それでも何とかカメラに収め、再びバス道に出て歩く。途中、びっくりするゆな邸宅が道路の左右に並んでいる。いったいどういう人たちが住んでいるのだろうか。通称嵯峨釈迦堂、清涼寺の山門に着いた。目的は回転式の経蔵がある経堂の横にある弥勒宝塔石仏である。二面仏で、裏は多宝塔になっている。西日が正面から差し、陰影に欠ける。大沢の池とは逆の悩みだが、取り囲む樹木の様子を伺うと、ベストタイムなのかも知れないと自分に言い聞かせる。
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帰路、枝垂れ桜の下にある四角い手水鉢を撮影する。四面に浮き彫りされているが、像はくっきりしていて、比較的新しいものだと想像できる。しかし風雪によって輪郭が次第に曖昧になる石仏は、野にあってこそ惹かれるのである。この像も同じ運命を辿って行くことになるだろう。伽藍に鎮座する仏像と違って、作者が分かっている石仏は数少ない。文化財的価値は低いだろけど、何故か心の琴線に触れる面影をたたえている。

写真はいずれも2009年12月2日撮影
NikonD700 Nikkor28-70mmF2.8
by twin_lens | 2009-12-03 09:04 | 哲学宗教
落葉を求めて晩秋の京都鹿ヶ谷法然院を再訪した
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山門
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白砂壇
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仏足石
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落葉
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谷崎家の墓
京都市左京区鹿ヶ谷御所ノ段町
Nikon D40 Nikkor18-55mm F3.5-4.6

明日から師走。名残の紅葉、いや、落葉を求めて京都鹿ヶ谷、法然院を再訪した。今秋、3度目である。山門、白砂壇の上のイロハモミジは天候不順のせいか、十分紅葉せずに枯れている。私はモミジはむしろ新緑のころが好きなのだが、やはり紅葉が好まれるらしい。桜が散るように、落ちて朽ち果てるのが情感に訴えるのだるか。落葉にピントを合わせたあと、観音堂の北の隅にある仏足石にもレンズを向けてみた。仏足石といえば、奈良薬師寺の銘が有名だが、京都では私が参詣した限りでは、右京区花園扇野町の法金剛院のそれが素晴らしい。帰路、墓地に寄ってみた。最上段に「空」「寂」のふたつの墓石がある。谷崎潤一郎は先祖代々の日蓮宗を嫌ってここに墓地を求めたという。「空」には松子夫人の妹重子夫妻、「寂」には潤一郎夫妻が眠っている。墓石の間に桜の木が一本あった。春になったらまた来ようと思った。
by twin_lens | 2009-11-30 19:37 | 哲学宗教