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カテゴリ:哲学宗教( 26 )
空也上人の西院河原地蔵和讃が脳裡をよぎった
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京都の高山寺といえば「鳥獣人物戯画」をで知られる、右京区梅ヶ畑栂尾(とがのお)にある寺院を連想する人が多いと思う。世界遺産に登録されている有名寺院だ。ところが阪急電鉄西院(さいいん)駅を降りた交差点の東北角にも同名の寺院がある。山門前の石柱には寺名の上に「旧跡西院(さい)之河原」と刻んである。かつて淳和天皇の離宮があり、皇居からみて西側にあったことから、この地域が西院と呼ばれるようになったという。西院は一般には「さいいん」と読むが、地元では「さい」と呼ぶ人が多いようだ。私には「いん」を省略したというより、語尾に小さく残しているように聴こえる。すぐ近くにある京福電鉄嵐山本線の西院駅は阪急と違って、ひらがな表記では「さい」となっている。

石柱の側面には「くろだにをはやたちいでてこうさんじさいのかわらをまもるみほとけ」という寺院の御詠歌が見える。これはむしろ「黒谷をはや立ち出でて高山寺の賽の河原を守る御仏」と漢字交じりにしたほうが分かり易いだろう。黒谷とは東山区にある浄土宗黒谷派の本山金戒光明寺のことである。ところで空也上人の「地蔵和讃」の西院河原(さいのかわら)すなわち賽の河原は、鴨川と桂川が合流する佐比の河原に由来すると言われている。淳和天皇の離宮近くに佐比大路があったことで関連づけられるようだ。少し言葉が錯綜してしまった。要するに「佐比の河原」から「西院の河原」そして「賽の河原」と派生したと考えられる。だからこれらは同音異字と言ってよいのではないだろうか。佐比の河原は鳥辺野(とりべの)、蓮台野(れんだいの)、化野(あだしの)、市原野(いちはらの)と同様、庶民の葬送の地、無常の地であった。
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石造阿弥陀如来像 高山寺(京都市右京区西院高山町) NikonD700 Nikkor28-70mmF2.8

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山門をくぐると大きな石造地蔵菩薩像が目に飛び込んできた。丸彫りの花崗岩製で、高さは3メートルはありそうだ。右手が与願印、左手に宝珠を持つ古い形式で、江戸末期の造立と想像される。この地蔵尊は上述の御詠歌にある通り、明治三十五年(1902)本山の金戒光明寺から移されたものである。周囲に阿弥陀などの小石仏が取り囲み、まさに賽の河原の様相を伝えている。中世、庶民は墓を作ることを許されず、小さな石仏を彫って死者を弔ったのである。現在、夥しい数の小石仏をを奥嵯峨野の化野念仏寺に見ることができるが、そのミニチュア版がここにある。さらに本堂には本尊の恵心僧都源信作の地蔵菩薩が安置されている。子どもに恵まれなかった足利義政夫人の日野富子が祈願し、足利義尚を授かったという伝説が残っているという。貞観十三年(871)この地は庶民の葬送の地と定められた。b0148967_16585465.gif後にに庶民の葬送の地は七条に移されたが、15歳以下の子どもはやはり左比の河原に葬ることになっていた。子どもの葬儀は行わず、葬地に捨てることになっていたという。つまり石仏も彫られず、河原の石ころを積み上げて小塔を作り、死者の菩提を弔ったようだ。地蔵尊を見上げていると、空也上人の哀切に満ちた和讃が脳裡をよぎった。

西院の河原に集まりて 父上恋し母恋し 恋し恋しと泣く声は この世の声とはこと変わり 悲しさ骨身を通すなり かのみどり子の所作として 河原の石を取り集め これにて廻向の塔を組む 一重組んでは父のため 二重組んでは母のため 三重組んでは故郷の 兄弟我身と廻向して 昼は一人で遊べども 陽も入相のその頃は 地獄の鬼が現れて やれ汝等はなにをする 娑婆に残りし父母は 追善作善の勤めなく ただ明け暮れの嘆きには むごや悲しや不憫やと 親の嘆きは汝等が 苦患を受くる種となる 我を恨むることなかれ 黒鉄の棒を差し延べて 積みたる塔を押し崩す その時能化の地蔵尊 ゆるぎ出でさせ給ひつつ 汝等命短くて 冥土の旅に来るなり 娑婆と冥土は程遠し 我を冥土の父母と 思うて明け暮れ頼めよと 幼きものをみ衣の 裳のうちにかき入れて 哀れみ給うぞ有難き 未だ歩まぬみどり子を 錫杖の柄に取り付かせ 忍辱慈悲のみ肌に 抱き抱えて撫でさすり 哀れみ給うぞ有難き 南無延命地蔵大菩薩 (空也上人『西院河原地蔵和讃』)

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by twin_lens | 2010-12-13 17:30 | 哲学宗教
河原町カトリック教会東門神父の聖書講座を思い出す
私はブルーグラス音楽が好きなので WAMU’s Bluegrass Country などのインターネットラジオを聴くことが多い。ところがこのシーズンになるとクリスマス音楽が流れ始めるので辟易とする。京都の商店街もそのうち「ジングルベの喧騒が始まるのだろう。クリスマスはキリスト教の行事だが、しばしばその範疇を超えることがあるようだ。かなり昔、私の少年時代にはクリスマスイブになると、三角帽を頭にした酔客がケーキをぶら下げて帰宅、その姿の写真がが翌朝の新聞に掲載されたことを憶えている。さすがに昨今はその姿を見かけない。
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ポインセチア 京都府立植物園(都市左京区下鴨半木町)

幼少期と中学生時代などをニューヨークで過ごした井上多恵子さんの「想いを英語に託せば」によると、宗教上の理由でクリスマスを祝わないユダヤ教徒らは、Season’s Greetings(時候のあいさつ)と書かれたカードを使うという。なるほど、非キリスト教徒が Merry Christmas というカードを出すのはおかしい。その点、ある意味で宗教色が薄いと言われる日本人はキリスト教徒ではなくともクリスマスに反発しないようだ。というよりイブになると京都の河原町カトリック教会などは、俄か信者の若いカップルで一杯になるから面白い。非キリスト教徒向けのミサを「クリスマス市民の集い」と教会が称して信者のそれと区別している。河原町カトリック教会といえば、毎週1年間通ったことがある。

東門陽二郎神父の講義を聴く為に聖書講座に通ったのだ。東門神父はニチメン実業の創始者の家庭に生まれた。京都大学医学部を卒業、後にカトリック神学院へ入学、ローマ法皇庁へ派遣され、哲学、神学を学んでいる。いわば科学者から宗教家に転じたかたである。宗教学上の興味で受講、たいへん勉強になったが、信仰に傾くことはなかった。何度も質問したイエズスの「復活」について、絶妙のご返答をいただいたが、やはりそれを受容できない自分を再認識したからだ。クリスマス音楽、カードと共に、このシーズンになると東門神父の講義を思い出す。

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by twin_lens | 2010-12-12 08:58 | 哲学宗教
石仏に見る盛者必衰の無常
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阿弥陀如来座像 真如堂(京都市左京区浄土寺真如町) NikonD700 Nikkor28-70mmF2.8
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頭部が欠けた石仏 真如堂(京都市左京区浄土寺真如町) NikonD700 Nikkor28-70mmF2.8

墓地は石造彫刻の宝庫と言えるかもしれない。例えば法然院の墓地には滋賀県東近江市にある石塔寺の重文三重塔「阿育王塔」のコピーがあったりして興味深い。ご存知嵯峨野の化野念仏寺の賽の河原は、いわば八千の仏の墓地である。補陀洛寺の墓地には小野小町の供養塔がある。五重の層塔で、薬師・釈迦・弥陀・弥勒の四方仏が彫られている。その形式から鎌倉後期の造立らしいが、一番奥には300体もの石仏がずらりと並んでいる。私はこのように寺を訪ねると墓地を見ることにしている。思わぬ発見があるからだ。真如堂(真正極楽寺)にも夥しい数の石仏があり、本堂の南側にコンクリートで固めた地蔵塚がある。横に「木食正禅造立」と刻まれた蓮弁の石の台座があり、鎌倉の大仏を小ぶりにした阿弥陀如来露仏が目につく。私はその裏に密かに佇んでいる石仏群が好きだ。
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頭部が残った石仏 金戒光明寺(京都市左京区黒谷町) NikonD700 Nikkor28-70mmF2.8
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無縁墓石供養塔 金戒光明寺(京都市左京区黒谷町) NikonD700 Nikkor28-70mmF2.8

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真如堂から少し南に歩くと会津藩士352名の墓所の菩提寺である西雲院に出る。法然上人が座ったと伝わる「紫雲石」で知られるが、ここにも金剛夜叉明王像などの石仏が安置されている。境内から山門を抜けると、金戒光明寺の広大な墓地に出る。そこで目に飛び込んで来るのは、様々な理由で整理された無縁墓石群である。その墓石に埋まる感じで残されている石仏の頭部がある。頭部だけなので、釈迦如来か阿弥陀如来か私には判別がつかないのが残念である。前からずっと気になっているものだが、何故かガンダーラ仏、あるいはさらに遥かのギリシャ彫刻を連想させられる表情をしている。大袈裟にいえば、イスタンブルの地下宮殿の柱の礎石になっているメデューサの様相を思い出すのである。このような形で放置されているなら、家に持ち帰りたいところだが、そうはいかないだろう。さらに南に下ると、今度は無縁墓石供養塔が聳え立っている。塔の上には阿弥陀如来像が座しているが、諸行無常、石の造物もまた永遠にあらずと感じ入る。平家物語ではないが、盛者必衰の姿がここに具現化している。

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by twin_lens | 2010-12-02 19:26 | 哲学宗教
続・蓮華寺から流失した石仏の謎
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京都市山科区御陵大岩の本圀寺に出かけてみた。御室仁和寺の隣にある五智山蓮華寺の音羽山から流失した二体の石仏があるという。京都市営地下鉄東西線御陵駅で降り、三条通から案内標識を頼りに急勾配の坂道を上ると、琵琶湖疏水に出た。桜の名所だが、辺りはすっかり秋の気配、その葉が色づいている。疏水沿いに東へしばらく歩くと、朱塗りの正嫡橋(写真右)が目に飛び込んできた。近代化遺産ともいえる疏水の素朴なコンクリートと好対照だが、とにかく目立つ。橋を渡り赤色の開運門をくぐり、仁王門の前に立つ。日蓮正嫡の道場を意味するのだろう「正嫡付法」と浮き彫りした篇額は金色、屋根の上には一対の金色の鯱鉾。これで驚いてはいけない、仁王像や梵鐘も金色なのである。宗祖日蓮上人の像は流石に青銅だが、背後の本堂はこれまた朱塗りである。なにもかもが派手な伽藍だが、風雪に絶え忍んできたものの、一部に欠損が見られる石仏二体を見つけることができた。境内東隅の客殿横に勢至菩薩(せいしぼさつ)像と十一面観音像がひっそり立っていたのである。
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石造勢至菩薩像 本圀寺(京都市山科区御陵大岩) NikonD700 Nikkor28-70mmF2.8
  
ちょっと言い方を変えれば「あっけなく見付けた」といって良いかもしれない。とういうのは佐野精一著『京の石仏』に「山積みの石材の中に二仏があることに気付いた」という記述があったからである。もしかしたら境内の何処かに紛れ込んでいるのではと思っていたが、いらぬ危惧だったようだ。両像の背面には銘文が刻んであるが、下京区の平等寺(因幡薬師)のそれのようにセメントで塗り隠されてるようなことはなかった。向かって左側の勢至菩薩像には「願主樋口平太夫家次(花押) 作者 但稱(花押)」と彫ってあり、これは広沢の池十一面千手観音像の銘文と同意である。すなわち五智山蓮華寺の復興に寄与した豪商樋口平太夫が、木喰僧坦称上人に依頼して作像したもので、紛れもなく音羽山から流失した五体の石仏のうちの二体であることは確かである。ではどうしてここにあるのだろうか。

b0148967_1594310.jpg勢至菩薩像背面銘 loupe 拡大表示 「願主樋口平太夫家次(花押) 作者 但稱(花押)」

本圀寺の寺伝によると、建長五年(1253)に日蓮上人が鎌倉松葉ヶ谷に構えた法華堂を始めとし、後に本国土妙寺として最初の祖跡寺院が創立された。ところが光厳天皇の勅諚を受けた四世日静聖人により、貞和元年(1345)に京都堀川六条へ移遷したのである。広大な伽藍を構えたが、戦後になって荒廃し、昭和三十年代に国宝級の仏像や美術品が一部の僧侶によって勝手に売却され、境内地が借金の担保になったという。そこで土地を売却して、昭和四十六年(1971) に山科の現在地に移転することになった。堀川警察署裏の墓地に蓮華寺から消えた石仏二体が置かれていることが知られていたが、これは何者かによる「盗品」であったことを寺院も知っていたようである。伽藍移転の際、本圀寺本寺の土地売却にあたっては、西本願寺等の間でスキャンダルや訴訟の類があったようだ。平等寺に安置されている毘沙門天像と金剛夜叉明王像の銘文が消されてることに関し、ある種の疑いを抱きつつ、前回曖昧に書いた。ところがその後、病床の佐野精一氏にお会いして真相を訊いた。やはり「盗品」だったそうである。移転先の二寺との間に金銭的な取引があったかどうかは知る由もない。ただ重文指定の仏像などなどなら、元の鞘に収まるだろうけど、寺宝という観点から石仏は価値が低いのだろう。雨ざらしの野仏ゆえ、流浪の旅を強いられたのかもしれない。

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by twin_lens | 2010-11-04 20:02 | 哲学宗教
蓮華寺から流失した石仏の謎
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石造金剛夜叉明王像 因幡薬師平等寺(京都市下京区不明門通松原上ル) NikonD700 Nikkor28-70mmF2.8

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拙ブログ記事「広沢池十一面千手観音像奇譚」に、御室の五智山蓮華寺の音羽山から流失した五体の石仏のひとつが、広沢の池の畔にあると書いた。そしてさらに京都市下京区の平等寺にも二仏があるようだとも。その平等寺に出かけてみた。因幡薬師の名で親しまれているが、十一面観音像を安置した観音堂は洛陽三十三所観音霊場の第27番札所である。本尊の重文薬師如来立像は、嵯峨釈迦堂(清涼寺)の釈迦如来、信濃善光寺の阿弥陀如来と共に日本三如来のひとつに数えられて信仰されている。京の町衆の会堂として、猿楽、芝居、歌舞伎の興業が行われ、浄瑠璃発祥の地ともいわれている。観音堂の右、本堂の西側に回り奥まで進むと、ブロック塀を背にした二体の石仏があった。右は毘沙門天像、左は金剛夜叉明王像である。金剛夜叉明王は怒髪忿怒相の三面、そして六本の手、所謂三面六臂像である。佐野精一著「京の石仏」には「金剛杵(こんごうしょ)などを持つ」とあるが、側面の手は形を失い、その様相は窺えない。同書には「どちらも例の背面銘があるが、何者かの仕業かセメントで塗り潰してある」とあるが、その通りである。何とか解読しようと思ったが、ちょっと無理であった。しかし佐野精一氏は、坦称上人が作像、樋口平太夫が寄進したものに間違いないと書いている。広沢の池の観音像は蓮華寺から借り出されたもので、借用状が寺に残っているという。しかしこの二体についてはどうだろうか。いかなる経緯でこの寺に流出したのだろうか。背面銘を消そうとした行為に疑惑めいたものを憶えるが、やはり余計な推測は避けよう。残る二体があるとい京都市山科区御陵大岩の本圀寺をぜひ訪ねてみようと思う。

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by twin_lens | 2010-10-23 18:00 | 哲学宗教
広沢池十一面千手観音像奇譚
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広沢池の西側を北へ少し歩くと、京都市の案内板が立っている。それによるとこの辺りは旧遍照寺の境内であったとある。史書によると遍照寺は平安時代中期、永延三年(989)に宇多天皇の孫、寛朝僧正が広沢池畔の山荘を改めて寺院にしたものだという。池中の観音島へは橋が架けられ、金色の観世音菩薩を祀る池の寺として繁栄したという。応仁の乱で廃墟と化したが、奇跡的に難を逃れた赤不動明王と十一面観音菩薩立像は草堂に移され、文政十三年(1830)に舜乗律師により復興された。現在の伽藍は広沢池の約二百メートル南、右京区嵯峨広沢西裏町にある。ところで観音島だが、十一面千手観音像が静かに立っている。金色のそれではなく無彩色の石造で、高さは約160センチ、安山岩製である。頭上には十一面の化仏をあらわし、千手脇手を持った丸彫りの石仏である。宇都宮市大谷にある千手観音のように、岩山に仏像を刻む磨崖仏ならともかく、丸彫りの石造ゆえ、脇手を伸ばすことが不可能のようだ。遠目には何やら荷を背負っていると錯覚しそうな姿であるが、空中の千手を想像するのも一興であろう。背面には「願主本国伊勢生武州江戸住家家次(花押)寛永十八年月日造立之 作但称(花押)」とある。その願主、樋口平太夫は、御室仁和寺の隣にある五智山蓮華寺の寺伝によると「豊臣家の家臣で、大阪落城後は同士とともに海外に雄飛したが、罪科に問われ同士は悉く斬られて、彼だけは死を免れた。その後江戸の材木商として財を為したが、日夜安堵に得ず、亡き同士一族の冥福を祈るため諸国遍路の旅に出る。寛永十二年(1635)入洛し、鳴滝音羽山にあった蓮華寺の荒廃を知るや再興を発願、六年の歳月をかけて寺院、石仏群を完成した」という。
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石造十一面千手観音菩薩像(京都市右京区嵯峨広沢町) NikonD700 Nikkor28-70mmF2.8

b0148967_1722830.jpg京の石仏 [古書]
佐野精一(著)
# 単行本: 271ページ
# 出版社: サンブライト出版
# ASIN: B000J8OETG
# 発売日:1978/05

その五智山蓮華寺の境内には薬師・宝生・大日・阿弥陀・釈迦の五如来石仏がある。これは樋口平太夫が木喰僧坦称上人に彫刻を依頼したものである。音戸山山頂に安置されていたが、戦後、現在の場所に移動したという。ところで広沢池の十一面千手観音像はその銘から推測できるように、蓮華寺の音羽山から流失した五体の石仏のひとつで、明治以降に借り出されという。寺には借用状が保存されているというのだ。要するに観音島に観音像が欲しい、ということだったと想像される。それでは他の四体はどうしたのだろうか。佐野精一著「京の石仏」によると、二仏は下京区不明門通松原上ルの平等寺、俗に因幡薬師と呼ばれる本堂の西にあるという。右が毘沙門天、左が金剛夜叉明王で、以上の三仏は早くから分かっていたという。そして残る二仏を発見したのは、昭和五十年(1975)秋のことで、山科区御陵大岩の本圀寺にあったという。山積みの石材の中に、十一面観音と勢至菩薩像があることに気づき、背面には例の銘があったという。ぜひ一度訪問してお目にかかりたいが、何しろ1970年代に出版された古書なので、現在どうなっているかは不明である。

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by twin_lens | 2010-10-01 18:00 | 哲学宗教
送り火を焼くのは観光寺院ではない
如意ヶ嶽の大文字や大北山の左大文字は、麓にある銀閣寺、金閣寺が焼いていると思われがちだが、そうではない。送り火が観光化し、両寺は拝観料で潤うだろうが、実は観光に縁がない無名の寺が奉仕している。この点に触れた作家の故水上勉氏のエッセーのコピーが手元にある。文末に「P・H・P」誌十一月号とあるだけだが、本文に古都税紛争で観光寺院が門を閉めたくだりや、日航ジャンボ機墜落事件に触れた記述があるので、昭和60(1985)年と推測される。もはや原文を目にする機会も稀有と想像されるので、全文をここに掲載することにした。
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如意ヶ嶽の大文字送り火 「都名所図会」安栄9(1780)年  loupe 拡大表示

五山の送り火 水上勉(作家)

ことしは久しぶりに京五山の送り火を拝んだ。周知のように、五山とは如意ヶ嶽の大文字、松ヶ崎東、西山の妙法、船山の舟、大北山の左大文字、鳥居本の曼荼羅山の鳥居である。十三日の盆に、祖先の精霊を迎えた京の家では、仏壇に供物をならべて念仏申しあげ、家内安全息災を祈願するとともに、精霊を弔うのだが、十六はその精霊が、ふたたび彼岸へ帰ってゆくのを送らねばならない。火はつまり、その仏徒たちの昔から行ってきた精霊送りだ。

調べてみると、これらの火は、五山の保存会のメンバーによって焼かれ、一般の人は仲間に入らない。昔から寺の信徒にその役があり、しかも、若衆とよばれた青年たちによって、焼かれるところもある。不思議なことに、それらの寺は有名寺院ではない。有名寺院といえば、京都ではみな観光寺院になってしまうが、火を焼く寺は、殆ど観光とは無縁といっていいだろう。

まず銀閣寺前にある浄土院が如意ヶ嶽の大文字を焼き、松ヶ崎は湧泉寺、船山は西方寺、大北山は法恩寺、鳥居本には寺はない。古くからの保存会の持ち山で、町衆が焼くのだそうだ。焼かれる護摩木は寺でつくられ、寺に詣でた善男善女が、新仏の法名や、俗名を書いて護摩料を払うのである。新仏の出なかった家は、先祖代々の霊だとか、一家の安全息災を祈ることばを書く場合もある。いずれにしても、これらの木をあつめて、背負って山へのぼり、汗だくになって焼く人々はみな、無名の信者たちである。この行事が何百年とつづいて、今日も燃えつづけた。なかった年は、敗戦の年とその翌々年までの三年だけで、昭和二十三年から休んだことがない。つまり、仏を送る信心に休みがないということであって、本心は、敗戦の年まわりこそ、大勢の死者が広島や長崎にあふれ、爆災都市にも、たくさんの焼死体がころがっていたのだから、京の町衆は送り火だけは焼きたかっただろう。ところが占領下であったために、遠慮しなければならなかった、とつたえられる。それにしても、この行事が、古くからの信者たちによって、手弁当で行われてきたことに私は心を打たれる。今は京の観光の目玉ともなり、どのホテルも満員の外来客を迎えてほくほくだが、じつはその送り火そのものは、観光とは無関係に、信心の証として、保存会の家々がうけついできている。

そこで、思うのだが、私たちは、大文字といえば銀閣寺を頭にうかべ、左大文字といえば金閣寺を頭にうかべ、有名な相国寺派別格地の両寺が焼くように思いがちだ。そうではない。護摩木は観光客に売りはするけれど、山へのぼって焼くのは、ほかの寺の信徒がやっていたのである。しつこいようだが、このことにこだわるのは、凡庸な俗界にあって、信心の火を観光寺院に見ることが出来なくなった、ということを、五山の火は教えたからである。伝によれば、如意ヶ嶽の大文字は、銀閣慈照寺を創建した足利義政がはじめたともいう。とすれば銀閣寺はやはり、火の元だったわけだが、いまは門前の浄土寺が、汗だくになって護摩木を背負い運び、当夜は、弘法大師像を安置するカナオの堂前で、読経し、住職の合図で火がつけられる。
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仏足石 京都市左京区銀閣寺町の浄土院
Zero4x5 Pinhole Camera Provia100F

ことしの送り火はいろいろなことを考えさせた。銀閣寺も金閣寺も古都税問題で(つまりゼニのことで)門を閉めて人を入れなかったりした。ところが、どういう相談ができたか、急に市当局と握手して、門がひらかれた。門をひらくことは賛成だが、なぜ門を閉めたかのか、庶民にはよくわからなかった。法灯を守るというのが理由のようだった。だが十六日の法の火は、観光と関係ない信心の徒をあつめる無名寺院が汗だくで焼いていたのである。送り火は死者を送るのだから、生者のよろこびだ。生者といっても、いつ朝露の如き命を落とさねばならぬかわかったものではない。安全と信じた大型飛行機が、とつぜん五百名以上の乗客もろとも、山にぶつかって燃えあがるこの頃である。

われわれはコンピュータ文明の世を生き、平和だといっている。一億総中流だともいっている。寿命ものび、老後に年金も入り、ゲートボールも楽しめ、しあわせな国に生きている思いが国民の大半を占めている、という。本当にそのように平穏だろうか。五山の送り火は、何百年と同じ火を燃やしながら、新しい何かを私にささやいた。何をささやかれたかを語るには枚数が足りない。火を拝んで、私は今日つかのまを生きておれたことを感謝したとだけいっておく。

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by twin_lens | 2010-08-11 16:03 | 哲学宗教
東寺五重塔内陣にどうして大日如来像がないのだろ?
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チュウサギ  loupe 拡大表示
京都市南区の東寺(教王護国寺)b0148967_2233848.jpg
NikonD700 MicroNikkor105mmF2.8

b0148967_17451282.jpg雨奇晴好。雨もよし、晴れるもよしというわけで、五重塔内部を特別公開している東寺に出かけた。講堂の立体曼陀羅、金堂の薬師如来三尊と順番に拝観、五重塔を見上げると早咲きの河津桜が満開。滴が垂れ下った花びらをカメラに収め、庭園の池端に出るとチュウサギが首を伸ばして獲物を狙っている。ひらりと水面に飛び降りたと思ったら、くちばしでザリガニを銜えている。あっとい間、一瞬のことでその瞬間を撮り逃がしてしまった。近距離のため、レンズを振る角度が大きすぎて追えなかっただろう。だからご覧のように間の写真が抜け落ちてる感じだ。やはり何となく悔しい。
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阿弥陀如来座像  loupe 拡大表示

しかし野鳥をを撮りに来たのでない。うっかり五重塔内部を見損なうところだった。五重塔はインドのストゥーパ、すなわち釈迦の遺骨を安置する舎利塔である。弘法大師が天長3(826)年に創建着手したが、しばしば災火を受けて焼失、現在の塔は寛永2(1644)年に徳川家光に寄進によって竣工したものだそうだ。東側から初層の内陣に入ると、心柱を背にした須弥壇に安置された阿閦(あしゅく)如来像が目に飛び込んで来た。
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宝生如来坐像  loupe 拡大表示
NikonD700 Nikkor28-70mmF2.8

そして反時計廻りに不空成就(ふくうじょうじゅ)、阿弥陀、宝生(ほうしょう)如来と続くのであった。いずれも金色だが、中心に置くべき真言密教の主導、大日如来の姿がない。東寺塔頭宝菩提院住職の三浦俊良著「東寺の謎」によると、空海は心柱そのものを大日如来と位置付けたそうである。大日如来は宇宙の真理を表わす仏である。この仏を心柱とみなし、その上で金剛界の密教世界を作り上げていったというのだ。
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by twin_lens | 2010-03-09 23:32 | 哲学宗教
読んで分からぬ仏教経典なら輪蔵を一回転
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三日前の続きである。梅宮大社で梅を鑑賞したあと、日暮れには遠い時間だったので、再び市バスに乗った。大覚寺行きだったが、嵯峨釈迦堂前で降りた。清涼寺である。山門をくぐった斜め右に進むと、読経が風に乗って聞こえてきた。実は生の読経ではなくテープで、経堂からのものだ。扉が開け放たれた正面に、中国・南北朝時代の居士、傅大士(ふだいし)の木像が鎮座している。両脇の立像は息子の普建・普成立である。傅大士が立てたふたつの指が、私にはVサインに見える。まるで「任せといて」とほほ笑んでいるようだ。外気に晒されてきたせいだろうか、色鮮やかだったに違いない塗料が剥げ落ちている。
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中に入ると回転式の経蔵があった。入口にあった説明板によると、釈迦が説いた一切の経典が納められてるという。唐紙製の明板本5408巻の大部が格納されていて、この輪蔵を一回転させると、すべてを読んだことになるという。このアイデアは、たとえ文字の読めない人であっても、気軽に仏の教えに出会えるようにと、傅大士が考えたものだという。仏教経典は庶民にはやはり難解だ。妙法蓮華経提婆達多品(だいばだつたほん)第十二を紐解いてみよう。

又女人身 猶有五障    又女人の身には猶ほ五障あり、
一者不得 作梵天王    一には梵天王となることを得ず、
二者帝釋 三者魔王    二には帝釋、三には魔王、
四者轉輪聖王 五者佛身 四には轉輪聖王、五には佛身なり。
云何女身 速得成佛    云何ぞ女身速かに成佛することを得ん。

仏教経典は漢訳のそれがそのまま使われている。正直言って聴いていても分からない。このように漢文を読み下したものでも文語体だとやはり分かりずらい。分からないなら、いっそのこと輪蔵を回して読んだことにしたほうが気楽である。百円を納め、体重をかけながら両手でグイと押してみた。六角形の巨大な書架が静かに回転し始めた。
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ところで写真をご覧になれば分かると思うが、この経蔵は六角形の巨大な書架である。tころが西本願寺その他全国に残る輪蔵は八角形である。ネット検索すると、いずれも八角形と説明されている。そのせいだろうか清涼寺の本山である東京芝公園の増上寺のそれが六角形にも関わらず、ウェブサイトには八角形と誤記されている。思いこみによるミスであろう。経堂を辞した私は「春待月京都嵯峨野石仏遊行記」にも触れた、弥勒宝塔石仏に再会した。高さ約2メートルの二面石仏の裏は多宝塔だが、表は釈迦如来という説もある。しかしその風合いを観察すると、弥勒菩薩説に軍配を上げたい。風雪に輪郭がが曖昧になりつつあるが、いつ見ても美しいと思う。境内の梅は満開、もうすぐ春の風が吹くだろう。

京都市右京区嵯峨釈迦堂藤ノ木町
NikonD700 Nikkor28-70mmF2.8
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by twin_lens | 2010-02-28 17:30 | 哲学宗教
浄土を夢見た庶民の願いが石仏に託された
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清水寺石仏群  loupe 拡大表示
NikonD700 Nikkor28-70mmF2.8

b0148967_185166.jpg仁王門をくぐり、随求堂の前に出る。石の道標があり、右が舞台がある本堂、左は成就院と矢印が指し示している。観光客の流れは当然のように右に折れて行くが、左に逸れる。すると右手の斜面に突然石像の群れが現れた。大日如来、千手観音、地蔵菩薩、そして二尊仏とさまざまである。風雪で目鼻の輪郭が乏しくなったものが多く、かなり古いものも含まれているようだ。京都は地蔵信仰が厚い土地である。各町内の大日堂や地蔵堂などに石仏を祀って地蔵盆会を営んできた。ところが明治の廃仏毀釈によってその多くが紙屋川や鴨川に捨てられたという。それでは余りにもも可哀想というわけで、壬生寺やこの清水寺などの寺院にも運び込まれたようだ。
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庶民の信仰の深さが石仏たちを救ったのである。石仏は一般に「お地蔵さん」と呼びがちだが、前述の通り、さまざまな像が彫られている。これまた当ブログで触れた記憶があるのだが、中世に於いて庶民は墓を造ることができなかった。だからこのような小石仏を彫って死者を弔ったのである。この像は二尊仏が、かろうじて残った凹凸のその陰影に、来世に西方浄土を夢見た往時の庶民の願いが、時空を超えて伝わってくる。見上げると、斜面上の木々の間から細く美しい光線が漏れていた。
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by twin_lens | 2010-02-10 16:37 | 哲学宗教