カテゴリ:音楽夜話( 17 )
三月の風が憂いを吹き飛ばす
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The Carter Family Alvin Pleasant, Sara and Maybelle Carter (L-R)  Scott County Historical Society

右足首の骨折がいまだに完治せず、外出がままならぬ日が続いている。ところで、はやくも今日から3月。思うところがあってYouTubeにアクセス、March Winds Gonna Blow My Blues All Away という曲のいくつかのヴァリエーションを聴いた。いつか裏の戸にも太陽が差して三月の風が私の憂いを吹き飛ばす、といった意味の歌。まさに今日に相応しい。オリジナルはカーター・ファミリーで、1934年に録音された。カーター・ファミリーはジミー・ロジャースと並んで、カントリー音楽の最初のスターだった。これまで何度か取り上げたが、1927年から1934年にかけての録音した126曲を収録したボックスセットを紹介した「人生には陽が当たる日も曇る日もある」を参照していただければと思う。
March Winds Gonna Blow My Blues All Away  YouTube

My momma told long years ago
Never to marry no girls that I know
Spend all your money and wear out your clothes
What will become of you God only knows

Suns gonna shine in my back door some day
Suns gonna shine in my back door some day
Suns gonna shine in my back door some day
March winds gonna blow my blues all away

Low down fireman dirty engineer
Low down fireman dirty engineer
Low down fireman dirty engineer
Stole my gal left me standing here
ご存知、カーター・ファミリーの曲は主としてブルーグラス・ミュージッシャンに継承された。私がこの曲を最初に聴いたのはビル・クリフトンのLP「カーター・ファミリー・メモリアル・アルバム」(スターディ1961年)だったと記憶している。下掲ビデオは昨年収録されたもので、バンジョーのキース・リトルがリード・ヴォーカルを担当している。フラットマンドリンを手にしたローランド・ホワイトが元気そうで、私にとってなによりも嬉しい便りだ。

California Bluegrass Association Staff Concert
Keith Little (banjo), Roland White (mandolin), Lisa Burns (bass), Chris Stuart (guitar) and Brad Leftwich (fiddle) at California Bluegrass Association's inaugural winter camp held February, 2010 at Walker Creek Ranch near Petaluma, California.
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by twin_lens | 2011-03-01 14:50 | 音楽夜話
私家版ビル・モンロー生誕100年記念切手
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ロイ・エイカフ生誕100年記念切手シート

この切手はアメリカ合衆国郵便公社が「カントリー音楽のキング」ロイ・エイカフ(1903~1992)の生誕100年を記念、誕生日の2003年9月15日に発行したものである。アメリカの切手といえば、ジョージ・ワシントンに代表されるように、大統領などの肖像が使われてきた。切手デザインで知られるリチャード・ディック・シーフを顧問に迎え、1983年に「国民切手諮問委員会」を設置、これまでにこのような記念切手を300以上発行してきたという。いわば国民栄誉賞切手版といったところだろうか。ロイ・エイカフの切手に使われた黒白写真は、1888年から1957年まで発行された週刊誌Collier1949年3月5日号に掲載されたものだという。蛇足ながら写真共有サイトFlickrにシェアされている画像には2002年発行となっているが、これは2003年の間違いであるのでコメントしておいた。
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私家版ビル・モンロー生誕100年記念切手

ところで来年9月13日が「ブルーグラス音楽の父」ビル・モンロー(1911~1996)の生誕100年記念日になるが、すでに祝賀サイト Bill Monroe 100th Birthday Celebration もでき、いくつかの行事が計画されてるようだ。ブルーグラス音楽の情報サイトであるCYBERGRASSによると、国際ブルーグラス音楽協会(IBMA)がFacebookのページでアナウンス、記念切手発行の推挙運動が始まったようだ。しかしもし実現しても、来年の秋まで待たなければならない。そこで面白画像作成支援サイトBigHugeLabsの力を借りて「私家版」をデザインしてみた。消印を来年2011年9月13日にしたのがミソだが、数字の100に単位を付けるかちょっと迷った。100セントなら1ドルだし、100ドルなんて高額切手はないだろうし。さて出来栄えはいかがだろうか。

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by twin_lens | 2010-11-22 22:33 | 音楽夜話
追悼写真:忌野清志郎1981年
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忌野清志郎が他界した。私にとって、高田渡以来のショッキングな訃報である。ガンに冒されていたことは知っていたが、何と言ってよいか分からない。朝日新聞電子版によると、泉谷しげるは「オレとしては忌野清志郎が亡くなったコトは受け入れません! 彼はオレの青春そのものだったし、年下なのに師として仰いできたしこれからもだ。忌野さんには一生勝てないし勝つ気もない。若い頃から希有な天才性を発揮してたし随分まねさせてもらったよ。まだ恩返しもしてないのに彼が勝手に逝くはずもない。だから冥福を祈らないし、告別もしない。オレだけは絶対に忌野清志郎の死は、認めないから」との談話を発表したそうである。
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ここに私が撮った2枚の写真を掲示しておく。残念ながら手元に原板フィルムがなく、週刊『アサヒグラフ』1981年2月13日号からの複写である。そのためいささか画質が悪い点をご容赦願いたい。同誌のために私は多くのミュージッシャンを撮影したが、印象に残っている極め付きはボブ・ディランであった。忌野清志郎はその次かもしれない。取材に対して気さくに応じてくれたことを思い出す。どう表現していいのだろう。激しいステージの印象と、実像にギャップがありながら、それがなだらかに融合していた、そんな不思議を感じたものである。下のRCサクセションの写真は楽屋で撮ったものだが、左からベースの小林和生、ドラムスの新井田耕造、キーボードのGONTA2号、忌野清志郎、ギターの仲居戸麗市。平均年齢28歳という若さである。
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by twin_lens | 2009-05-03 17:11 | 音楽夜話
添田唖蝉坊~高田渡~細野晴臣~そしてYMO
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今蘇る書生節~貧困を唄う loupe 拡大表示

大阪の講談師・旭堂南海から手紙が届いた。今月末に開催されるライブ『今蘇る書生節~貧困を唄う』のチラシとともに、私がかつてヴァイオリン演歌を歌っていたので、一度会えないかというものだった。今は演ってないのでお話だけならと返信しておいた。私が演歌をちょっと齧ったのはずいぶん昔のことで、確か1970~71年ごろだったと記憶している。京都市の北、北山杉で知られる周街道をさかのぼると京北町がある。常照皇寺の九重桜と言えば分かる人が多いかもしれない。その京北町に「山国青年の家」というのがあり、フォークキャンプがあった。私は飛び入りだったが、ヴァイオリンの弾き語りで添田唖蝉坊の歌を歌った。これを縁に、大阪で開催された高田渡のコンサートにゲストとして招かれたのである。当時、渡サンは唖蝉坊の歌を、アメリカンルーツ音楽に載せて歌っていた。いわばそのオリジナル模した演奏を私がしたので、客席から喝采を受けたことを、恥ずかしながら思い出す。
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高田 渡(吉祥寺 1974年) CanodateE Tri-X

1972年に東京に転居した。その年の暮れだったと思うが、浅草で「唖蝉坊生誕百年祭」があり、図々しくもヴァイオリンを手に押しかけたのである。会場は花街の検番。そこで唖蝉坊の子息、『演歌の明治大正史』(岩波新書)の著者、作家の添田知道と知り合った。また大阪の縁で高田渡との交遊も始まり、コンサートにゲストとして呼ばれたりした。幻のバンド「武蔵野たんぽぽ団」に一度フィドラ―として加わり、武道館で演奏したこともある。私は音楽家ではないし、今にしてみれば冷や汗ものの厚顔ぶりだった。ただ、そのお陰でいろんなミュージッシャンと懇意になった。まだ荒井由美という実名で歌っていた学生時代のユーミンなどなど。1977年にイルカなどの海洋哺乳類保護運動を支援する、大がかりなコンサートが晴海であった。私は「フィッシュアイ'77」という写真家グループを結成してその記録写真を撮った。その縁で翌年4月、横尾忠則、細野晴臣らのインド旅行団に加わった。帰国後、細野晴臣が作った曲を、イエロー・マジック・バンドが演奏したアルバム『COCHIN MOON』(コチンの月)がリリースされたが、ジャケットは私が撮った写真を横尾忠則がコラージュしたものだった。
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細野 晴臣(ケララ州コチン 1978年) LeicaM4 Kodachrme64

b0148967_18492572.jpg音楽少年漂流記
細野 晴臣 (著)
# 文庫: 271ページ
# 出版社: 新潮社 (1988/01)
# ISBN-10: 4101061114
# ISBN-13: 978-4101061115

その年YMO(イエロー・マジック・オーケストラ)が結成されたが、その誕生プロセスの一部を垣間見たのである。YMOは一世風靡、細野晴臣は私にとっては天上人になってしまったが、10年後、邂逅した。週刊誌『朝日ジャーナル』の連載企画で大貫妙子、矢野顕子ら9人の女性アーティストと対談、私は幸いなことにカメラマンとして参加できたからだ。対談集は『音楽少年漂流記』(新潮文庫)に結実している。人の縁というのは不思議なものである。学生時代、ブルーグラスバンドを結成、フィドルを少しいじった。それが派生して、明治・大正時代のヴァイオリン演歌の真似ごとをしてみた。この戯れが、多くのミュージッシャンと知り合うきっかけとなったのである。単なる音楽好きのカメラマンでは、あのような付き合いはできなかったと思う。久しぶりに京都の「拾得」に飛び入り参加してみようかな。弘徽殿女御、つまり我が家の山の神にはきっと猛反対されるだろうけど。
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by twin_lens | 2009-04-17 11:05 | 音楽夜話
フライドチキンではないケンタッキー・カーネルズ
米国ケンタッキー州から何を連想するだろうか。首府ルイヴィルのケンタッキーダービーを思い浮かべる人がいるかもしれない。しかし何と言っても日本人に馴染みがあるのはKFC(ケンタッキーフライドチキン)ではないだろうか。その象徴であったカーネル・サンダースの像が大阪・道頓堀川から救い出されて話題になった。KFCのウェブサイトによると、この像の原型はカナダのあるフランチャイズ店舗で作られたもので、イベントで使用された後は倉庫で眠ったままになっていたという。日本KFCの幹部がその立像をみつけて、日本に持ち帰り、店頭に置かれた。だから日本だけのものだという。私は1970年代、ケンタッキーの本店前を通り過ぎたことがあるが、像があったか憶えていない。日本にKFCができた1970年だそうだが、確かこの年、神戸のトアロードにできたばかりの店を取材した。連れて行ってくれたのは、新しがりやの女子高校生だったが、これまた像があったかどうか記憶にない。カーネルは大佐を意味するが、一種の名誉称号で、州に貢献した人に贈られるようだ。

b0148967_022566.jpgThe Kentucky Colonels
Live in Stereo
# Label: Double Barrel Records, 2003
# ASIN: B00009UVWV

ケンタッキー州と言えば、私ならブルーグラス音楽がまず頭に浮かぶ。州のニックネームがブルーグラスで、ビル・モンローが率いたバンド名がブルーグラス・ボーイズというのがその謂われである。同じケンタッキー・カーネルでも、こちらは「S」が付いた複数形になっている。フランス系カナダ人のエリック・ホワイト・シニアの3人の息子、ローランド、エリック、クラレンスと娘のジョアンが1954年に西海岸のロサンジェルスで結成した "Three Little Country Boys" がケンタッキー・カーネルズのルーツだ。ローランドがビル・モンローに傾倒、フラットマンドリンを手にしたことからブルーグラスバンドに変身、1957年には地元局でレギュラー番組を持つようになる。1963年にファーストアルバムを出すが、このときからケンタッキー・カーネルズを名乗るようになった。上記ケンタッキー州の名誉称号を意識したものであろう。徴兵で抜けていたローランドが戻り、フィドラーのボビー・スローンが加わり、グループは全米ツアー敢行する。1964年にはUCLAとニューポートのフォークフェスティバルに足跡を残している。その後、天才フィドラーであったスコッティ・ストーンマンを迎えたが、1965年に解散する。

ケンタッキー・カーネルズが今日でも強い支持を得ているのは、なんと言ってもクラレンス・ホワイトの技巧を凝らした、華麗なギターテクニックの魅力によるものだろう。ジョージ・シャフラーやドン・レノの奏法を基に、彼独自の発想が加わった革命的奏法である。フラットピックによる早弾きは、古くはアルトン・デルモア、その影響を受けたドク・ワトソン、そしてトニー・ライスが有名だが、いずれも演奏スタイルは微妙に違う。クラレンスは、1968年にザ・バーズに参加、フォークロックの礎を築いたひとりだが、 1973年に交通事故でこの世を去った。弱冠29歳だった。このアルバムは1965年録音の音源を、昨秋急逝した Shikata Records の四方敬士氏の尽力でCD化されたもので、パーソネルはクラレンス(ギター)、ローランド(マンドリン)、ビリー・レイ(バンジョー)、ロジャー・ブッシュ(ベース)の4人。スコッティ・ストーンマンとの共演など、何枚かのCDが出ているが、録音状態も良く、彼らのベストアルバムだと思う。
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by twin_lens | 2009-03-13 23:23 | 音楽夜話
ダニーボーイの故郷を訪ねて(3)
b0148967_12201976.jpgThe Petrie Collection of the Ancient Music of Ireland
by George Petrie (Author), David Cooper (Editor)
# Hardcover: 280 pages
# Publisher: Cork University (29 May 2002)
# Language: English
# ISBN-10: 1859183018
# ISBN-13: 978-1859183014

これは先に紹介した「アイルランド古謡ペトリ・コレクション」の復刻版である。ペトリの原本、メロディー、および彼の序論のすべてを含んでいるが、いわゆる完全復刻版ではなく、新たに版を組んでいる。古いアイルランドのスペルが、現代のそれに置き換えられている。日本でもよく行われてる、旧かなづかいを現代かなづかいに直す作業と同じである。一番残念なのは、譜面が省略化されてることだ。例えば前回掲載した楽譜は、ペトリの娘が編曲したピアノスコアがついていたが、これが省かれ、主旋律のみとなっている。なぜこのようにしたか不明であるが、だから正確には復刻というより新版と呼ぶべきかもしれない。このハードカバー版は1冊のみ日本アマゾンに在庫があったが、私が購入したため、マーケットプレイス扱いになってしまい、割高になってしまったようだ。米国アマゾンにはないが、英国アマゾンに在庫があり、値段は54ポンドとなっている。

ジェーンが旅回りの盲目のフィドル弾き、ジミー・マカリー(1830-1910)から教わったという逸話が、リマヴァディにあるサイト「ダニーボーイの起源」に詳述されている。それによると、ある日彼女はバーンズ&レアード運送会社の事務所の外でジミーが美しいメロディを奏でているの聴いた。そして彼に何度も弾いて貰った。そのお礼にとコインを貰ったジミーが、それを擦ってみると、ペニー銅貨だと思っていたのが実は2シリングのフロリン銀貨であった。高価なので間違いじゃないかと彼女を追って質すと、ジェーンは感謝の気持ちであるからと、そのまま持って行くようにと返却に応じなかったという。非常にドラマチックな物語であるが、これは著名な民謡蒐集家サム・ヘンリー(1870-1952)が「民衆の歌」に書いているという。ジミーの子孫であるウォレス・マカリーから1996年に聞いたもので、信憑性が高いと主張している。
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Graveyard of the Ross Family
Christ Church, Limavady, Northern Ireland

魅惑的な逸話である。しかし出来過ぎた話はともするとフィクションが含まれている。文献歴史学の立場からすれば、ジェーンに関する記録は、ペトリのそれだけであって、その資料は余りにも乏しい。アイルランドの音楽関係者の話では、わずかに残ってるのは、当時の中流家庭に育ち、音楽好きであったことぐらいである。せめて彼女が送った楽譜が残っていればと思う。彼女自身が実は作曲者ではなかっただろうか、というのはさらに魅力ある想像だが、これは考え難い。私はリマヴァディのクライスト教会あるロス一家の墓地を訪ねた。墓碑には一番上に父親ジョンの名が刻まれ、次に4人の娘の名がある。いずれも結婚をしなかったようだ。彼女がペトリに送ったメロディに「ダニーボーイ」の詞をつけた作詞者は、弁護士でもあったソングライター、フレデリック・エドワード・ウェザリ(1848-1929)と言われている。この歌は世界中に広まり、今でも多くのミュージッシャンが歌い、無数のレコーディングがある。無名のまま68歳でこの世を去ったジェーンがそれを知るよしはない。(おわり)

Deanna Durbin - Danny Boy

Oh, Danny boy, the pipes, the pipes are calling,
From glen to glen and down the mountain side;
The summer's gone, and all the roses falling;
It's you, it's you must go, and I must bide.

But come ye back when summer's in the meadow,
Or when the valley's hushed and white with snow;
I'll be here in sunshine or in shadow;
Danny boy, Oh Danny boy, I love you so.

But if ye come and all the flowers are dying,
If I am dead, as dead I well may be.
Ye'll come and find the place where I am lying,
And kneel and say an "Ave" there for me.

And I will know, 'though soft ye tread around me,
And then my grave shall richer sweeter be,
Then you'll bend down and tell me that you love me,
And I shall sleep in peace until you come to me.

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by twin_lens | 2009-02-25 12:22 | 音楽夜話
ダニーボーイの故郷を訪ねて(2)
天井が高い閲覧室を抜け、奥の古文書保管室に案内された。最初に見せてくれたのは、ジョージ・ペトリ自筆の楽譜集だった。その中にジェーン・ロスから送られてきたとういう但し書きがついた曲があった。しかし残念ながらあのメロディではなかった。次に1855年に出版された「アイルランド古謡ペトリ・コレクション」の初版本を館員が抱えてきた。その57ページに、昔のアイルランド音楽と題し、Name unknown、つまり曲名不詳と書いた楽譜が印刷されていた。譜面を見ると紛れもなく「ダニーボーイ」のメロディである。「この曲を送ってきたロス嬢によれば”かなり古い”という簡単な注意書きのみで、彼女は曲名を確認できなかったようだ」という意味のことをペトリは書いている。なお、この本は2002年、アイルランドのコーク大学から復刻版が出版されたので、現在は入手可能である。
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The Petrie Collection of the Ancient Music of Ireland

これは所持していたライカで急遽撮ったものである。まさか旅行中に文書のコピーをすると予想していなかったので、複写用のカメラとレンズを用意していなかったし、部屋の照明も条件が悪いものだった。いま思い返すと、コピー機を何故使わなかったかという疑問が残る。図書館に装置がなかったとは考え難いのだが、どうも記憶の外である。貴重な資料ゆえ、動かしたり熱が加わったりすると傷むとマズイので、その場でフラッシュなしの撮影をしたかもしれない。図書館へは、英国政府の人に北アイルランドの首府ベルファストからアポイントをとって貰ったのだが、それにしてもこのようなフイの来訪者をよく受け入れてくれたものだと感心する。私は日本の国会図書館を利用したことはないのだが、古文書を閲覧し複写するには、あらかじめ文書による面倒な申請などが必要で、電話一本で予約というわけにはゆかないと想像してしまう。全く同じようなことを、米国ワシントンDCの国会図書館でも経験したことがある。事前の予約なしに、民謡資料室で貴重な資料や録音に触れることができたのである。
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A Fiddler in Derry
NikonF3 Nikkor105mmF2.5 Kodachrome200

世界中に広まったこの美しいメロディを採譜したのは、旅のフィドル弾きからだというのが定説になっている。あるいはイレアンパイプではないかという説もある。楽器の携行性を考えると、フィドルのほうに説得力がある。ジェーンがこの曲を耳にしたのは、彼女が40歳のころだったと推測を加えることもできる。しかしながら、これらはあくまで文字通り推測であって、確かな記録はない。だから文献歴史学の立場に立てば、ペトリが書き残した以外のさまざまなダニーボーイ物語は、すべてフィクションということになる可能性が高い。いわば文学の世界である。しかし人間というのは面白いもので、史実より、時にフィクションを好むようだ。そのほうがロマンに満ちてるからかもしれない。もっとも魅力あふれる逸話は、ジェーンが盲目のフィドル弾き、ジミー・マカリーから教わったというものである。もうひとつは、実はジェーンが作曲したものではないかというものである。これらは果たして史実に切迫したものなのだろうか。(つづく)
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by twin_lens | 2009-02-22 19:35 | 音楽夜話
ダニーボーイの故郷を訪ねて(1)
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Derry
NikonF3 Nikkor105mmF2.5 Kodachrome200

英国政府観光庁の日本語ウェブサイトに「歴史的な城塞都市デリーは、別名ロンドンデリーとしても知られ、北アイルランド屈指の歴史を誇る」とあり、感慨を新たにした。少なくとも私が初めて訪ねた時は、英国で発行された地図にはロンドンデリー(Londonderry)と記されていた。ところが南のアイルランド共和国で発行された地図には、単にデリー(Derry)となっていたからである。古くはゲール語で "Doire" と呼ばれ、これはオークの森という意味だそうだ。だから元々はデリーであったが、1623年にロンドン市領となった際に改名されたのである。近年、地名に関する訴訟が起きたが、2007年に英国の高等裁判所は、ロンドンデリーが正式名称であるという判決を下した。しかし上記サイトの記述に一定の配慮を感ずる。この街で会った古老に、デリーですね、と話しかけたら、ロンドンじゃないよ、という答えが返ってきた。ロンドンという綴りを省いた地名に、英国の圧政に苦しんだアイルランド人の怨念を感ぜざるを得ない。


前書きが長くなってしまった。いま私は「ダニーボーイ」の原曲について書きだそうと思っているのだが、果たしてそれを「ロンドンデリーの歌」としていいのか迷っている。しかし曲名はともかく、地名はデリーと書くことにする。1851年、ダブリンに創設されたばかりの「アイルランドメロディ保存出版協会」のジョージ・ペトリ(1789-1866)の元に楽譜が送られてきた。送り主はデリーの東約25キロにある町、リマヴァディに住むジェーン・ロス(1810-79)だった。ペトリはこの曲を含め、1855年に「アイルランド古謡ペトリ・コレクション」と題する本を出版した。その57ページには、この美しいメロディが、膨大な曲の蒐集をしているリマヴァディのジェーン・ロスから送られてきたものだと紹介している。譜面を見ると紛れもなく「ダニーボーイ」のメロディであるが、大事なのは、曲名がついてないことである。
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ジェーン・ロスの生家
LeicaM4 Elmarit28mmF2.8 Kodachrome200

b0148967_22325991.jpg私が雑誌の取材で、このリマヴァディにあるジェーン・ロスの生家を訪ねたのは、1987年のことだった。濃い青紫色に塗られた2階建ての1階右側は商店になっていたが、左側の壁に丸いプレートがあった。それには「民謡ロンドンデリーエアを記録したジェーン・ロスがここに住んでいた」と書かれている。中に入ると、気品ある老婦人が迎えてくれた。クローディ・マクルーニさんは当時すでに76歳だったが、48年前にこの家を買ったと話してくれた。計算してみると、1938年ということになる。ジェーンの遺品はなかったが、近くの墓地でその墓と対面することができた。彼女は生涯独身を通したようだが、いったいどんな女性だったのだろうか。その軌跡を求めて、国境を超えたダブリンの国立図書館を訪ねたのである。(つづく)
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by twin_lens | 2009-02-20 22:34 | 音楽夜話
いつまでも私たちの耳に残って離れない歌がある
b0148967_3234518.jpgAppalachian Journey
ヨーヨー・マ(チェロ)マーク・オコーナー(フィドル)エドガー・メイヤー(ベース)ジェイムス・テイラー(ギターと歌)アリソン・クラウス(歌)
# CD (2000/3/21)
# Label: Sony
# ASIN: B00004S38H

オバマ大統領就任式のビデオを見て、この古い一枚を思い出した。フィドル、ベースと書いたけど、ヴァイオリン、コントラバスとすべきか迷ってしまう。民俗音楽を取り込んだクラッシック音楽では、例えばロマの音楽をソフィスケートした、ヨハネス・ブラームスの「ハンガリー舞曲集」を思い出す。しかし、これとはちょっと違うように思う。そもそもクラッシックの弦楽三重奏、あるいは弦楽四重奏には確かコントラバスは登場しないと思う。それにゲストのジェイムス・テイラーはれっきとしたフォーク系のシンガー&ソングライターだし、アリソン・クラウスはブルーグラス音楽界の歌姫である。アルバムタイトルはずばり「アパラチアの旅」である。要するにアメリカンルーツ音楽をテーマにしたもので、私にとっては実に興味深いものがある。クラッシック音楽愛好家が聴いた場合、どのような感想を持つかもちょっと知りたいところである。さらに興味を引くのは、ゲストふたりが歌っているのが、いずれもスティーブン・フォスターの曲であることだ。
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ケンタッキーの我が家
My Old Kentucky Home State Park in Bardstown, Kentucky
Rolleiflex2.8F Planar80mm Tri-X

まだ子どもの頃、アメリカ人と結婚して渡米した叔母が一時帰国したとき、お土産にとプレゼントしてくれたのが、ギターの形をした手回しのオルゴールだった。曲はフォスターの「おおスザンナ」だった。無論、よく知っているメロディだった。小学校、中学校と、フォスターの曲を学校で何曲歌わされただろうか。「草競馬」「故郷の人々(スワニー河)」「主人は冷たい土の中に」「懐かしきケンタッキーの我が家」「夢路より」などなど、よく憶えている。名曲「つらい時代はもう来ないで」(Hard Times Come Again No More )は、黒人教会で聴いた歌が元になったと想像される。ボブ・ディランをはじめ、ナンシー・グリフィスメイヴィス・ステイプルズなど、多くのシンガーが取り上げてるにも関わらず、この曲をかつて学校などで聴いた記憶は全くない。しみじみとした、心に響く素晴らしい歌である。上記CDの中でジェイムス・テイラーが歌っているが、ライブを収録したDVDもある。

人生の喜びをちょっと止め、たくさんの涙を数えよう
貧しい人たちと共に悲しみを嘆いてる間に
いつまでも私たちの耳に残って離れない歌がある
おお、つらい時代はもう来ないで、という歌だ



フォスターが作った曲の多くは、ミンストレルショーで演奏するためのものだった。これは白人が顔を黒く塗り、アフリカ系アメリカ人の格好を真似て歌い踊るショーの形態である。南北戦争が始まると、ミンストレルショーが行われなくなり、フォスターの曲が人々に触れる機会が徐々に減っていったという。この歌は「金髪のジェニー」と同じ年、1854年に作られたもので、後の大恐慌時代にも歌われたという。カーター・ファミリーの "Keep On the Sunny Side" に触れたことがあるが、同時代のトピカルソングであった。レコードとラジオという新しい媒体に乗ってヒットしたが、フォスターの時代にはまだそれがなかった。1864年、37歳の若さで他界したが、エジソンが蓄音機を発明したのはその13年後だった。フォスターの祖先はアイルランドからの移住して来たが、何故かそのルーツを彷彿させるものが希薄である。教科書に載っていたこともあるだろうけど、結局、彼が残したのは楽譜だけだったからかもしれない。
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by twin_lens | 2009-02-16 08:21 | 音楽夜話
カーボン弓狂想曲異端調
ヴァイオリン(フィドル)の弓の反りが捻じれてしまい、使えなくなってしまった。修理を依頼しようと思ったが、安もの、素材そのものが良くないので、新しいのを買うことにした。前からカーボン弓が気になっていて、試してみたいと思っていた。kyoko_fiddler さんがブログでカーボン弓導入について書いていたことが決定打となった。プロの演奏家が良いというのだからきっと良いのだろ、というわけで購入することにした。カーボンといえば、カメラの三脚を思い出すが、前から所有しているものが使えるので、導入に至っていない。そういえばカーボンの釣り竿を所持していたことがある。フライフィッシング用釣り竿というと、英国ハーディ社のバンブーロッドに憧れる日本人が多いようだが、私がアイルランドで会った英国人アングラーは、日本製のカーボンを褒めていた。いずれにしてもカーボン、正しくはカーボンファイバーは炭素繊維強化樹脂のことだそうで、軽量で、強度、弾性率が高い素材のようだ。

調べてみると、当然かもしれないが、値段がピンからキリまである。あるサイトに載っていた記事によると、低価格帯のカーボン弓ならお奨めだという。というのは安い弓は素材の木材そのものの質が悪いので、弓の強度が落ちる。その点でカーボンは期待できるし、破損し難いというメリットもあるそうだ。いわば工業製品だから、仕上がりにムラがないのも良いという。ところが中級以上なら、カーボン弓はちょっと疑問だというのだ。木製の弓は本来リペア(補修)が可能で、使い方によれば何百年も持つ。たしかにヴァイオリンは本体も一部の部品の除いて木でできている。接着材も膠なのでバラして修復が可能になっている。だから18世紀に作られたストラディバリウスが現在でも使えるのだろう。そういう意味では、ヴァイオリンは手工芸品であり、工業製品の弓はその歴史の異端児かもしれない。ところで拙文「フィドルとヴァイオリンはどこが違うのですか?」で、前者が歴史的には下賤な楽器として蔑みを受けてきたと紹介した。
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父と娘 (※)
Benburb, Co. Tyrone, Northern Ireland
LeicaM4 Elmarit28mmF2.8 Kodachrome64

画家ジョージア・オキーフの父親フランシスは、カトリック教徒のアイルランド人で、読み書きがやっとできる程度しか教育を受けなかった農夫だった。ベニー・アイスラー著、野中邦子訳の伝記『オキーフ/スティーグリッツ』(朝日新聞社)によると、フィドルでアイルランド民謡を奏でて遊びほうける父親の姿が印象に残っていたという。英国の支配によって苦しめられたアイルランド農民にとって、ダンスが最大の愉しみであった。製作技術の向上により、安価で手に入るようになったフィドルが、その伴奏楽器として普及したことが窺える。今日、ヴァイオリンというと高価な楽器という印象は拭えないが、少なくともアイルランドでは大衆的な楽器だったようだ。上記、中級カーボン弓は10万円以上する。弓がこの値段なら、本体はいくらだろうか。私のフィドルはロングビーチの中古楽器店で買ったものだが、ぼろぼろのケースの形状などから推測すると、おそらく19世紀に米国に持ち込まれたものだろう。70ドル、1万円に満たない。いくらカーボン製が安いとはいえ、本体より高い弓を買うハメになったのは言うまでもない。

(※)英国北アイルランドのほぼ真ん中、タイロン群ベンバーブ村の音楽一家。二人の娘さんはフィドルの名手で、父親は夜はパブを経営、自らフィドルのライブ演奏をしていました。客の大半は近所の農民で、私のような日本人を見るのは初めての様子でした。写真に写っている長女はこの時、英国政府の官吏と婚約中でした。音楽好きの彼氏は、カトリック教徒の娘と結婚するため、出世を諦めたと言ってました。

TB:新兵器導入
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by twin_lens | 2009-01-31 22:53 | 音楽夜話