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カテゴリ:諸国見聞( 5 )
夏河を越すうれしさよ手に草履
清滝隧道の手前「愛宕寺前」で京都バスを降りると、すぐ目の前が仁王門だった。門をくぐると夥しい数の羅漢が迎えてくれた。坂を上って本堂前に出ると、その数はさらに増し、山あいの斜面にまでびっしり並んでいる。五百羅漢という言葉は、釈迦の涅槃時に立ち会った弟子たちの数に由来するが、境内にはなんと1200体の像が奉納されているそうだ。つまり千二百羅漢というわけだ。当初は500体だったが、後に700体が追加されたという。羅漢たちは、まさに1200の顔を、1200の心を持っている。怒りの表情はごくわずかで、みな和やかにほほ笑んでいる。昭和五十六年(1980)、仁王門の解体修理を機に、仏像彫刻家だった前住職が呼びかけ、一般の人々が彫ったものだそうだ。この石像群のことを教えてくれたのは、仕事仲間だった穴吹史士君だった。羅漢を奉納すために寄進、自ら彫るつもりだったが仕事に忙しく、どうやら友人に託したようだ。しかし迂闊にもどの石像か訊かず終いになってしまった。
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羅漢 愛宕念仏寺(京都市右京区嵯峨鳥居本深谷町)NikonD700 Nikkor28-70mmF2.8

訊かず終いと過去形で書いた。すべてを追憶の過去に戻さねばならないが、1980年代当初のことを明瞭に憶えているわけではない。だから残った印刷物から組み立てるしかないのである。週刊朝日のグラビアページ編集を担当していた穴吹君と一緒に仕事をしたのは、昭和五十六年(1981)、東アフリカのケニア取材旅行だった。企画は彼の友人だった共同通信の岡崎記者から持ち込まれたもので、JTBのツアーに同行するものだった。アバーディア国立公園の「ツリートップス」に泊まることができたのが印象的だった。
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サファリバス ケニア・アンボセリ国立公園(1981年) NikonF4 Nikkor200mm Kodachrome64

b0148967_1642685.jpg週刊朝日1982年1月8日号巻末グラビア「WESN」 第1回 loupe拡大表示

一行と別れた私は、小説『沈まぬ太陽』のモデルといわれた小倉寛太郎氏率いるサバンナクラブとタンザニアで合流した。一行の中にライオンなどの哺乳類に背を向け、ひたすら双眼鏡で鳥を観察し続ける人がいた。当時NHK文化センターに勤めていた松平康氏だった。母方の叔父が鳥類学の先駆者、蜂須賀正氏博士で、松平氏自身も大の鳥好きだったのである。この旅行の縁が、週刊朝日の新しいグラビア企画「WESN」に繋がったのである。「BE-PALも売れてるし、一般誌でもネイチャーを取り上げないと」というのが彼の言い分だった。良いものは堂々と真似をしようという実利主義であった。無論その場合、オリジナルにない工夫を怠らなかったのは言うまでもない。同じ年の秋に新潮社から写真週刊誌FOCUS(フォーカス)が刊行されたが、これが売れた後に、彼は週刊朝日に「アクショングラビア」を創設する。例によってやはり「真似しない手はない」という哲学であった。私も参画したが、彼の方法論を密かに「浪花のアナキズム」と呼んだことを思い出す。洒脱な彼は、実は典型的な大阪人だったのである。平成元年(1989)私は京都に舞い戻り、穴吹君とは仕事場を分かつことになってしまった。平成二十二年、西暦2000年のミレニアム、朝日新聞日曜版で「名画日本史」の連載が開始された。その取材キャップが穴吹君だった。
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名画日本史―イメージの1000年王国をゆく
〈1巻〉 〈2巻〉

朝日新聞日曜版「名画日本史」取材班 (著)
# 大型本: 214ページ # 大型本: 206ページ
# 出版社: 朝日新聞社 (2000/09) # 出版社: 朝日新聞社 (2001/02)
# ISBN-10: 4022586702 # ISBN-10: 4022586737
# ISBN-13: 978-4022586704 # ISBN-13: 978-4022586735
# 発売日: 2000/09 # 発売日: 2001/02

再び彼と仕事を共にする機会が巡ってきた。一緒に雑誌の取材をした仲だったが、今度は新聞が舞台だった。ただ日曜版なので、文字通り週刊誌的な仕事、このシリーズの写真撮影が楽しみになったのはいうまでもない。その年の夏、私と穴吹君は筆者の森本哲郎氏と共に丹後への取材旅行に出た。与謝野蕪村の足跡を辿る旅だった。蕪村がしばしば訪れたという与謝郡加悦町の施薬寺前の小川に立った私は、草むした橋を撮った。もしかしたら「夏河を越すうれしさよ手に草履」と詠まれた夏川かもしれないかと思ったからだ。天橋立の旅館に辿りついた私たちは、お酒をしこたま呑んだ。美酒に酔いながら「大腸ガンの手術をしてね」と穴吹君は笑った。そしてまた十年の時が流れ、風の便りに彼が他界したことを知った。ガンが転移したのだろう。あれから三十年、愛宕念仏寺の羅漢たちは揃って苔を纏い、落ち葉を背にしている。どの石像か分かれば今度は花を手向けようと思う。

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by twin_lens | 2010-11-20 22:06 | 諸国見聞
琵琶湖周航竹生島参詣記
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六地蔵詣りで知られる京都市右京区の源光寺に舟形光背の風変わりな石仏がある。軟砂岩製で、中央に那智山と記した六臂の如意輪観音像、その上に三体の観音像が配してある。西国三十三観音霊場のうち、和歌山県の青岸渡寺、兵庫県の中山寺、琵琶湖竹生島の宝巌寺、岐阜県の華厳寺の本尊を選んで彫ってある。制作年代は江戸時代中期のものらしいが、当時の札所信仰を伝えている。宝巌寺がその四ヶ寺のひとつになっていることが興味深い。青岸渡寺も京都からかなり遠いが、宝巌寺も決して交通が便利という場所とはいえない。竹生島は長浜の岸辺から何度か遠望したことがあるが、琵琶湖汽船の「島めぐりクルーズ」に参加、初めて上陸した。
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急こう配の石段を登ると、途中、石仏を祀った祠があったが、見るととそれは如意輪観音像だった。宝巌寺の本尊は弁才天像である。同寺ウェブサイトよると、聖武天皇が、夢枕に立った天照皇大神より「江州の湖中に小島がある。その島は弁才天の聖地であるから、寺院を建立せよとお告げがあり、神亀元年(724)聖武天皇が建立したという。観音堂は翌年に作られ、千手観音像を安置したそうである。だから西国三十三観音霊場のうちの第三十番札所になったわけで、すると途中の石仏に矛盾を感ずるが、些細なことかもしれない。
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b0148967_10525946.jpg竹生島(滋賀県長浜市) NikonD700 Nikkor28-70mmF2.8

本堂に入って目にとまったのは、本尊の弁財天ではなく、無数のミニダルマだった。病気平癒、家内安全などを祈願して奉納したものだが、その数の多さに驚く。観音堂から隣の都久夫須麻神社(竹生島神社)へは屋根つきの渡廊で結ばれているが、これは重要文化財だそうである。琵琶湖に面した拝殿の突き出た所に龍神拝所がある。ここから参詣者たちは願い事を書いた土器(かわらけ)を湖に向かって投げるのである。創建時、神仏習合で寺と神社は一体化していた。明治元年(1868)に発布された神仏分離令により、廃寺とし神社に改めよという命令が下りた。そこで本堂の建物のみを神社に引き渡すこととなったそうである。その後宝巌寺は本堂のないままに仮安置の大弁才天だったが、昭和17年(1941)、現在の本堂が再建されたという。寺から神社の本殿になった建物は国宝に指定されたが、残念ながら現在は修復工事中で、白いシートに覆われていた。島を辞して再び汽船に乗り、長浜港に向かうと、水上バイクが追ってきた。航跡の波頭を利用してジャンプを楽しむためだ。

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by twin_lens | 2010-10-12 13:56 | 諸国見聞
唖蝉坊を偲んで浅草ぶらり
b0148967_2114269.jpg唖蝉坊歌碑 浅草寺弁天堂 loupe 拡大表示

確か境内にあったはずだとウロウロ、見当たらない。何度か参詣した浅草寺だが、記憶が戻らず、添田唖蝉坊の歌碑の場所が分からない。猛暑に疲れて諦めかけたが、念のため境内南東の角に位置する弁天堂に回ってみる。あった、あった、やっと見つかった。板碑の右側に唖蝉坊の似顔絵が線刻されているが、その姿ははっきりしない。中央から左側にかけて歌が彫られているが、これまた陰影が曖昧である。かろうじて「むらさきぶし」と読める。埃を洗い流し反逆光で見ればもっとはっきりするかもしれない。おそらく拓本をとるのがベストだろうけど、許可申請など、東京に住んでない私にはちょっと厄介だ。帰宅してから「唖蝉坊流生記」を改めて開いたところ、歌碑は1956(昭和31)年、浅草の会などが建立したという。この歌碑を私が初めて排したのは今から38年前の1972年、浅草の検番で開催された「唖蝉坊生誕百年祭」の後、息子の知道氏に案内されてであった。生誕祭で私は図々しくも、ヴァイオリンの弾き語りで「思ひ草」を歌ったが、今考えると冷や汗ものであった。最後に〆たのは、浅草の芸者衆による「むらさき節」だった。

撞きいだす鐘は上野か浅草か
往き来も絶えて
月にふけゆく吾妻ばし
誰を恨むやら
身をば欄干に投げ島田 チョイトネ

添田唖蝉坊は明治、大正を駆け抜けた演歌師だった。演歌は「演説の歌」に由来する。集会条例によって街頭演説が禁じられ、歌ならいいだろう、ということで始まったものである。従って政治的色彩が極めて強いものだった。「當初、それは政治運動の具であった。やがて『具』であるだけでは私には満足出來なくなった。單に悲憤慷慨風刺嘲罵を呶鳴るだけでは慊らなくなって來た。それはあまりに上辷りであった。ほんとうに心から『うたって』みたくなった。人間の心をうたひ、民衆の、私たちの、生活にもつとぴったり觸れて行きたかった(流生記)」と唖蝉坊は述懐している。かくして「むらさき節」は生まれたのである。この歌は一世を風靡し、演歌の黄金時代がやって来たのである。
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添田唖蝉坊 1903(明治36)年ごろ(添田唖蝉坊顕彰会編・刊「唖蝉坊流生記」1956年※)

さて、38年前の生誕白年祭の後、浅草寺から添田知道氏に連れられて行ったのが「土手の蹴飛ばし屋」であった。土手とは、現在の台東区日本堤界隈を指す。今は埋められたが、かつては人工の堀があり、文字通り土手があったことに由来する。蹴飛ばし屋というのは馬肉料理店のことである。浅草行きの予定が生じた時、急遽思いだしたが、店の名前はすっかり忘れていた。しかし有難いのはインターネット、数語の検索で吉原大門交差点近くの「中江」であることが分かった。創業1905(明治38)年、唖蝉坊もきっと通ったに違いない。二階の座敷に通された私は、小さなテーブルの前にちょこんと座り、馬刺しと桜鍋を待った。

※上記「唖蝉坊流生記」は限定500部の非売品ですが、1999年12月に日本図書センターから復刻版が発行され、現在入手可能です。

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by twin_lens | 2010-09-02 23:16 | 諸国見聞
コンゴ反政府勢力がマウンテンゴリラ保護区域を制圧
立命館大学平和ミュージアムに巡回されてきた「世界報道写真展」の中で、最も印象に残ったのがブレント・スタートン氏の作品「マウンテンゴリラの死体の収容」だった。コンゴ民主共和国東部、ヴィルンガ国立公園で昨年8月に撮影され、ニューズウィーク誌に掲載されたものだ。ご存じ、マウンテンゴリラの生息頭数は著しく少なく、国際自然保護連合(IUCN)のレッドリストで絶滅危惧種に指定されていて、保護の対象となっている。この1枚によって、コンゴにおけるマウンテンゴリラ虐殺事件が世界中に伝播したといえそうだ。肝心の写真を見てないかたは、本文冒頭の「マウンテンゴリラの死体の収容」をクリックしてください。この作品以外にも何点か写真が見つかったのだが、著作権が絡むので直接表示できないのが残念だ。ただ下記ビデオにも虐殺されたゴリラのシーンがあるので、併せて御覧になることをお勧めする。


マウンテンゴリラ虐殺を止めてください

それではなぜマウンテンゴリラは虐殺されるのだろうか。象牙採取のためのゾウの密漁といった話なら分かりやすいが、そうでもなさそうだ。これまでの報道を読むと、いくつかの理由があるようだ。ちょっと信じがたいのが、反政府武装勢力が食料にするという説。もうひとつは木炭の違法取引に関与する人物が犯人という説だ。木炭の違法生産にとって、ゴリラの保護活動は邪魔で、だから殺すというのだ。これには流石に驚く。例えばレアメタルの不法採掘といった話なら理解できるが、木炭の違法生産とは。さらに国境を隣にするルワンダからの避難民をめぐる抗争もゴリラ虐殺に関係があるようだ。さらに厄介なニュースが飛び込んできた。ナショナル・ジオグラフィック誌10月27日電子版のニック・ワダムス記者の記事によると、マウンテンゴリラの生息地域であるヴィルンガ国立公園の本部が反政府軍の手に落ちたというのだ。

記事によると今月26日、コンゴ政府軍から造反した、ローラン・ンクンダ将軍が率いる反政府軍の「人民のための防衛民族議会(CNDP)」が、ヴィルンガ国立公園本部を制圧し、政府軍は完全撤退を開始した。公園で働く50人以上の自然保護レンジャーは、森林地帯へ脱出せざるを得ない状況に追い込まれたという。またこの地域の自然保護に関わっていたロンドン動物学協会とフランクフルト動物学協会も現在避難を開始しているそうだ。これにより、自然保護団体によるゴリラのモニタリングは継続することが不可能となったという。ンクンダ将軍が率いるCNDPの今回の襲撃目的は不明らしいが、この地域は軍事戦略的に重要な拠点だという。CNDPは昨年、10頭のマウンテンゴリラを殺害したと言われているそうだ。だとすると、今後の展開を心配せざるを得ない。公園を監視するレンジャーがもぬけの殻になれば、ゴリラの保護活動は大きく後退してしまうことになる。なにしろ絶滅危惧種なのだから。

参考記事:ゴリラ殺害事件の真相
http://nng.nikkeibp.co.jp/nng/magazine/0807/feature02/index.shtml
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by twin_lens | 2008-10-29 18:56 | 諸国見聞
そういえば写真撮影もシュートと呼ぶ
ヘミングウェイの短編小説『キリマンジャロの雪』を読み返していたら、遥か昔のアフリカ旅行を思い出した。エリザベス女王がまだ王女の時代に泊まったケニアの「ツリートップスホテル」がコースに入っていたのが目玉だったツアーに加わったことがある。アンボセリなどいくつかの国立公園を回ったあと、その団体と別れた私は、エチオピア経由でタンザニアのキリマンジャロ空港に降り立った。ケニアとの国境が封鎖されていたための迂回だった。当時その印象を「人間がもしその双肩に翼を持った動物なら大地に国境という無用な線を引くようなことはしないだろう。その目は山々の稜線、野を走る河川の蛇行を楽しむだろうけど、地図を四色で区切るような愚かなことはするだろうかと」と雑誌に書いた。目的は日航の社員、故・小倉寛太郎さんが率いていた「サバンナクラブ」一行と合流することだった。

明日12日は群馬県上野村の御巣鷹の尾根に日航ジャンボ機がに墜落した日である。23年前のことだった。この飛行機事故が基本構成になっているのが山崎豊子さんの『沈まぬ太陽』で、ミリオンセラーとなった小説だ。主人公「恩地元」のモデルは小倉寛太郎さんということになっている。小説というのは作り話、フィクションであることが前提だが、この作品はノンフィクションとして読んだ人が多いという。私も、あれはそうだったのか、と思いながら読んだものである。しかし内容に関し、その真偽について様々な議論があるらしい。小倉さんはハンターであった。小説にもあるが、これは間違いない。ケニア航空日本韓国地区支配人だった新井田洋さんのホームページには、小倉さん宅にところ狭しと飾られたライオン、チーター、バッファロー、インパラなどの剥製が写った写真が掲載されている。
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Ngorongoro Crater, Tanzania
NikonF2 Nikkor200mm Kodachrome64

すでに小倉さんは銃をカメラに持ち替えていたが、ある種の強引さにハンターを彷彿させるものがあった。写真を撮ることも銃を撃つこともシュートという。望遠レンズを構えると、人は猟師に見えなくもない。それに銃に似せたカメラもある。昼寝しているサイの周りを車で爆走、驚いて走り出したところを撮る手法に対し、私はその熱意に感心するとともに、半ば呆れたものである。そういえば水面に浮かび、じっとしてる野鳥を飛び立たせようと、脅しをかけたい衝動に駆られたことがある。そのことが動物にどのような影響を与えるか私には分からないが、やはりそれは躊躇われる。だからサイの一件に呆然とするとともに、優れた写真という新たな獲物を狙う人なんだと思った。小説の中の「恩地元」は労働組合活動に加担したゆえに出世コースから外された悲劇のサラリーマンとして描かれている。フィクションと分かりながらその屈折感と、写真に没頭する姿をオーバーラップさせて読んだのも無理からぬことだろう。
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by twin_lens | 2008-08-11 20:50 | 諸国見聞